いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
AQUAMIXT 潤治です。
このところ、メルマガでは寛子の断乳についての話題で皆さんのご感想を多くもらっているようです。
その人その人の人生への姿勢を共有することになり、僕たちのあらたな学びや気づきになっています。
そして、寛子のセキララなシェアがまっすぐにその人の心に届けばいいなと思っています。
しかしながら、僕たちがセキララに自分たちの経験を共有することで、読まれる方のサナギの様に触れることが憚られるような体験や感情が出てくることがあるからです。
読まれる人の人生に問いを投げることもあるでしょう。
その人の過去の感情を炙り出すこともあるでしょう。
心の痛みを思い出すこともあるかもしれません。
その人の忘れていた傷に塩をぬることもあるかもしれません。
そういった可能性を踏まえつつ、ブログを書いていきたいと思っています。
さて、今回の家族で決定した「断乳」という決定は、僕たちが行使した自由意志です。
「よし、このタイミングで断乳しよう。」
という決定です。
そこには時間的な制約などの外的な問題は特になく、
その決定の全責任は僕たちにあります。
寛子のメルマガでもありましたが、
本当にこのタイミングでいいのだろうか?
という不安や恐れはつきまといました。
おっぱいを終了する
という活字にすれば、
ひょっとしてなんともないことのように見えるイベントは
僕たち夫婦の自由意志というテーマを深く考えさせる事件といってもいい出来事でした。
子どもについて決定しなければならないことが次から次へと降りかかってきます。
楽しいイベントでもありますが、怖れから観ることだってもちろんできます。
そして、その怖れはゼロにはなりません。
僕の父や母は僕を幼稚園や保育園に入れなかったことを
この歳になった僕に対して、罪悪感を持って思い出します。
僕にとってはどうでも良かったことなのですが、
「息子にベストなものを与えられなかった」
という幻の後悔は消えないようです。
罪悪感をエネルギーにするという話
自由意志の話に戻しますね。
自由意志とは、何でも自分で決めていいという、まさに自由です。
そして、同時に何でも自分の責任になるという拘束になりうる可能性もあります。
自由とは、責任のことである。
だから、たいていの人は、それを恐れたりもする。
だから、たいていの人は、それを恐れたりもする。
Liberty means responsibilty.
That is why most men dread it.
(ジョージ・バーナード・ショー)
何でも決めて良いという自由は、とても怖いものだと感じます。
それこそ、断乳をしなければならない状況に追い込まれたほうが良かったかもしれません。
来月から仕事が始まるから
子育て本に書いてある通りにするから
周りからそうお願いされたから
つまり、責任転嫁したいわけです。
誰かに、状況に、環境に…。
怖れが湧き起こってくると、決めたはずの自由意志に迷いが生じます。
それこそ、責任転嫁したい自分に屈服したくなります。
医師、保健師、保育園や幼稚園の園長、学校の先生…
「え、先生が言っていたから…」
「そういうものらしいよ。」
「○○ちゃんのところはそれで失敗したらしいよ。」
と思考丸投げでいたくなるかもしれません。
責任転嫁は依存心からなると僕は感じています。
社会に出てからも、「先生が言ってたよ!」的な…
すりこまれた思考パターンは僕自身、中々抜けないようです。
自分が絶対に正しいという境地に達することもできません。
達する必要もないと感じます。(しかし、向かう必要はあります。)
そして、いつも相反する声が聞こえてきます。
そのどちらを選ぶのか?
そこが人生に変化をもたらすポイントです。
マイノリティへの怖れも生じるかもしれません。
多くの人の怖れの思考からなる常識という価値観が「結果」を求めているものならば、
真実はその全く相対する場所にあるように思います。
自らの直感がそれを指し示すなら、それに従ってみることも人生の醍醐味でしょうか。
直感は、ハイヤーセルフ、天使の声、サムシンググレート、守護神などの
高次の存在と直に繋がり感じる力だと思います。
誰もが持つ霊性から成るものであり、それは使いこなす必要があります。
自由意志はその盤石な土台に支えられています。
その盤石な土台を築き、磨いて洗練していくレッスンが、
自分を信じて行かなければいけない。
教わるものは遠慮なく教わるがいいが、
自分の頭と眼だけは自分のものにしておかなければいけない。
教わるものは遠慮なく教わるがいいが、
自分の頭と眼だけは自分のものにしておかなければいけない。
( 武者小路実篤 )