セラピーのお仕事は楽しい
心理カウンセリングに携わって20年以上、おうちセラピストをして、16年。セラピーの仕事はとても楽しく、いつも氣付きを与えてくれます。常に自分が成長し、その成長が誰かのためになるという奇跡を感じている日々です。
目の前にやってきてくださる方は、いつも自分へのメッセンジャーのような人で、その方の悩みや葛藤、不安が僕自身へのメッセージであることが多々あります。
そのテーマを共有し、お互いに新しい選択をする、ものの見方になる機会になることがカウンセリングセッションの特徴です。
しかし、落とし穴のような部分もあります。
それは、セラピストが相手をどう見ているかに因ることが多いようです。
自分が救援者、相手が問題を抱えている人と見ている場合です。
救援者であるセラピストは、何とか相手の問題を解決しようと試みます。
その姿勢であるセラピストは、相手のパワーを奪ってしまう可能性があるということです。
そもそも、その人には自分で解決する力があります。
にもかかわらず、セラピストが先回りして、その人自身が氣付きを得る前に解決してしまおうとすることです。
つまりは、セラピスト自身の自己肯定感
とあるセラピストの昔話
昔の話ですが、僕が社会人になり、はじめての部下ができた頃のことです。
部下の一挙一動を気を配って、先輩としての立場から、仕事を覚えるように指導していました。
「大丈夫かな?新人だから○○はできないだろう?」
「失敗するに決まっているので、注意を払っておこう。」
と部下に気を遣っているようで、実は彼が失敗することだったり、
できない事実を引き寄せようとしていた自分がいました。
「相手は未熟」というラベルを貼っていたわけです。
先輩として、部下を思う反面、彼に成長してほしくない、ずっと僕を頼りにして欲しいという思いが隠れていることに気づきました。それが相手には侮られた・過小評価されたと感じさせてしまうことも多いです。
僕が心配するように、部下は心配事を起こし、「やっぱり、僕がいないとダメだ。」と僕に思わせるようになりました。
ここで、セラピストなら自分の問題に氣付く必要があります。
しかし、相談者にその問題を投影する傾向があります。
セラピストは相談者から対価をいただきますので、「何かしてあげた」と思いたいわけです。
そうすると、「救援者」である自分を肯定してしまうわけです。
救援されるべき人などどこにもいないのですが。
どんなラベルを相手に貼っているか
それ以降は、相手や状況をコントロールせずに、相手が自分で解決する機会を奪わないように氣を配りました。自分自身の猜疑心や信頼、依存心などと向き合う作業にもなりました。
「僕がいるおかげであなたは助かっている」と思いたいですからね(苦笑)。
今でも、誰かにとってそういう重要人物でいることはとても気持ちがいいことです。
「必要とされている」状態は、自分がどのような状態であるかによっては「共依存」にもなります。
そして、そのような「必要とされている」状態は、自分のセルフイメージを充足してくれるかりそめの魔法のように感じます。
本来、自己肯定感は「誰かに必要とされる」ということで、埋める必要の無いものです。
では、どうするのか?
すでに当たり前だと思って見逃していたようなことに目を向けることです。
「自分が生かされているという感覚」や「自分が許されているという感覚」に感謝することが
健全な自己肯定感になるのかもしれません。
他者から奪うことも、自分には何かが足りないというものの見方も、必要がなくなるように思います。
僕自身、セラピーをして、相手から必要とされる喜びを前にすると、当たり前の自己肯定感を忘れてしまうことがあります。
必要とされる喜びは、とても有り難く刺激的です。
しかし、僕の心の弱さから、さらに刺激を求めて、もっと強いものを欲しがってしまうことがあります。
例えば、薄味で済んでいた料理の味付けが、どんどん濃くないと食べた感じがしないようなものでしょうか。野菜本来の味よりも、調味料のインパクトを欲してしまうようなものですね。
「もっと必要とされる自分になりたい」
「もっと必要とされる場所で生きたい」
もっと、もっと もっと もっと…状態です。
「感謝する理由がみつからなければ、落ち度はあなた自身にある。」
ネイティブアメリカン ミンカス族の言葉「喜びに満ちた人は、はからずして義を説く」
マザーテレサ の言葉
まず、自分が喜びに満ちて、自己肯定感を感じ、
必要とされる喜びはおまけのように感じられたらいいなと思います。
だからこそ、我慢せずに、自分の好きなことをしたほうがいいと言えます。
そういう生き方を選択している人は、とても穏やかなものです。
「生かされているという感覚」「許されているという感覚」に感謝できるセンスを磨き、自己充足し、セラピーをすることが、僕の喜びの表現になり、そのおまけとして、人から必要とされたり、応援されたり、感謝されたりすることが増えていくような、そんな世界を生きたいとあらためて思うのでした。