数日前、娘の小葉(このは)が飛び火(伝染性膿痂疹〈のうかしん〉)に罹患しました。
飛び火とはよく言ったもので、次から次へと肌を火傷のような発疹が覆い尽くします。
これでもか!ってほど全身に広がり、親としてはその姿に為す術がなく、無力感に苛まれます。
僕も幼い頃に罹患したことがあり、肌の質は僕譲りかもしれません。
…と考えると余計に無力感に罪悪感のようなものが襲ってきて心はざわつきました。
自分に似てしまったから…なんていう罪悪感をわざわざ探し出して自分を責めることで何も得られないと分かっているのですが。ちょっとした感情ゲームですね。
しかし、同時に、無力感に苛まれるなんて、自分もずいぶんと万能な人間になったものだと自分にツッコミを入れる自分もいました。
できるだけのことをしてあげたいという思いと何かコントロールできないかという氣持ちが合わさって、複雑な気持ちです。
そして、ひとりで無力感に苛まれているのですから、忙しい人だと自分を客観視する自分もいるというわけです。
無力感に苛まれまている両親を間近で見なければならない娘の小葉も受難と言えるでしょうか。
誰かに対して無力感を味わうのは、どうして?
僕が中学生の頃、あるきっかけで自分の不遇な家庭環境を同級生の女子に話すことがありました。両親が離婚して、ほぼほぼ自分で食事を作るとか、洗濯ものをするとか、いう類いの話です。
何かその女子のやる氣スイッチを押してしまったのか、彼女は土曜日はお弁当を作ってくれるようになり、困ったことがあったら教えてね、とありがたい言葉をかけてくれるようになりました。
中学2年生、当時の僕はどうしようもない人間なので、その厚意を無にするような言動をとりました。誰にもすることのなかった「反抗期」の対象を彼女にしてしまうという鬼畜ぶりでした。
愛して欲しいと思いながらも、その愛を試すような仕掛けを用意するわけです。
用意してくれたお弁当を食べなかったり、約束を反故したり、わざと避けてみたり…。
しばらくすると、彼女はあきらめたのか、僕にあれこれすることをやめました。
その時の彼女の目は印象的で、それこそ「無力感」だったように思います。
当時は何か悲しいような悔しいような感覚で、彼女の心の様相を表わす言葉を思い浮かべることができませんでした。
あれは「無力感」だと大人になって思いました。
そして、今回の飛び火に罹患した小葉を思う自分と彼女を重ねて見る機会となったのです。
- 無力感を勝手に味わわない
- 愛し方にはいろいろな形があること
- 自分の愛し方が、相手にとって愛されているという実感を生み出すのか
などなど、考えることが多かったです。
そして、
小葉自身の回復する力を信頼して、今自分ができることだけに集中できればとあらためて思います。
あれやこれやと思い悩み、絶望している姿は、娘にとっても残念な姿でしょうから。
中学生の頃、彼女が彼女なりのやり方で僕を救おうとしてくれたことにあらためて感謝しました。
受け取れなかった人の厚意が、今までの人生でいかに多いことか…。
いろいろな愛の形がありますが、未熟な自分から見てそれが愛だと思えなくても、その愛に気づけるような感受性を磨いていきたいなぁと思えた飛び火騒動でした。