自分を受け容れるためにどうするか?は迷走する説

潤治の徒然草

「セラピスト」と呼ばれるようになって十数年…。

そう呼んでくれる人がいて、僕のような職業は成り立ちます。
「自称」から周りを認めさせていく腕っ節は僕にはないように思います…。
自分という存在は、周りの人たちからの応援で成り立っているのような氣持ちですから。それは年々、強く思うことですね。

さてさて、

「自己受容」というテーマは、仕事・収入・結婚・パートナーシップ・就職など、あらゆる分野にわたり、その人に影響を与え続けると感じます。

自分を受け容れるという姿勢が、劇的に人生を変える場面も数多く見てきました。
僕もその恩恵を受けて、ここにいるわけです。

その中には、条件付けした自己受容もありますね。

「こういうわたしなら、わたしは受け容れることができる。」

  • 何かを身につけた自分
  • 何かを持っている自分
  • 何かを成し遂げた自分
  • 何かになった自分

などでしょうか。

つまりは、何かを付け加えた自分ですね。

自分の存在を許せない自分は少なからず、誰もが持っていると思います。

「なんで、あの時!」
「最低だわぁ、自分。」
「ああ、やめられない!」
「こんなこと考えちゃう…。」
「むかつくむかつく!」
「もっと綺麗な顔立ちだったら…!」

自分の「許せないところ探し」をリストアップしてみると良いですよ。
何をそんなにこだわって、怖がっているのかが分かりますから。

すべての人間が違う個性で生まれてくるわけですから、そして比較や評価される経験すれば、何かしらの感情は出てくるでしょう。

生まれてからずっと、

「みんなちがってみんないい」なんて思ってきた人は希ろうと思います。

僕の場合、今でも「本当か?」と猜疑心がむくむくと湧き起こりますからw。

「みんなちがってみんないい」なら、何で「障害」というレッテルを貼って、いろいろな人やモノを隔離したり、排除したりするんだろう?都合のいい博愛主義を斜めから見ながらも何もできない僕なわけです。

山本周五郎の言葉で、

「許すということは難しい。しかし、許すとなれば、際限はない。
ここまで許す、ここからは許さないというのは許すことにならない。」

とあります。

「みんなちがってみんないい」という姿勢は覚悟がいるように思います。

それは、自分に対してもと感じます。

自分を本当に許せるようになるのは、いつになるのか分かりませんが、「自分の氣持ちに従う」「自分を優先する」「自分の直感を信頼する」といったことを日々、繰り返していくうちに、きっと、魂が望むものに近づいていくのろうと思います。

それには練習が必要ですね。
後は分かち合う仲間でしょうか。

あなたには、「許せない自分」ってありますか?
僕は、たまに発動します…w。

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