おはようございます、潤治です
パートナーの寛子は、企業講師もしているので、新人研修シーズンはとても忙しくなります。ここ数日、多摩→名古屋→東戸塚→多摩 と毎日、現場が違います。息つく暇がないとはこのことだと彼女を見ていて思います。
彼女の忙しさとは対照的に僕はとても静かな時間を過ごしています。一日一日、木々の緑が色づき、桜のつぼみがふくらみ、うぐいすの鳴き方は上手になっていき、頬にあたる風は暖かくなり… そんな時間を与えてくれる日々に感謝しながら散歩しています。パートナーの寛子が与えてくれる時間を有意義に使うことが今の僕に出来ることです。
昔は、彼女が一生懸命仕事しているのに、僕が時間を持て余していると『僕は何をしているんだろう?』 と思ったものでした。せめて、僕も忙しくしようと意味なく、予定を入れたり、心だけざわつかせる…という珍技を披露していました。
彼女が一生懸命に働いているのを見ていて、「今、僕にできることはなにか?」 を自分に問うたりしていました。
その時に出した答えが…
「僕も彼女と同じくらい疲れること」
でした。
今、考えると笑い話ですが、その時は真剣にそう考えていたものです。
講師業を終えた寛子が帰宅すると…
寛子が「はぁ~疲れた~」と言うと、僕も「潤治も、今日は疲れた~」と言います。
寛子が「忙しかった~」と言うと、僕も「潤治も時間なくて忙しかったぁ~」と言います。
“こだま” のようです…。
せめて僕も忙しくしなければ、疲れなくては…と思い込んでいました。
罪悪感から逃れるために、それを背負ってしまうという厄介なメンタリティです。
苦しむことで罪悪感から解放されるという幻です。
この状態を 「おばあちゃんの重い買い物袋の法則」 と呼んでいます。
どういうことかというと…
おばあちゃんが買い物袋を両手に重そうに持っているのを見かけて
何となく気まずいので、自分も両手に荷物を持って重そうにしてしまうということです。
“おばあちゃん、僕もこんなに重いですよ” アピールです。
また、「優先席でがっつり疲れているふりをする法則」 とも呼んでいます。
疲れていたので優先席でぐったりしていると、おばあちゃんが目の前に立ちます。
パッと立って席を譲れば良いのですが、がっつり疲れているふりをしてしまうということです。
“おばあちゃんに席を譲れないくらい、よっぽど僕のほうが疲れていますよ” アピールです。
寛子が一生懸命に働いてくれるのを見て、昔の僕は罪悪感でいっぱいでした。
その罪悪感を感じないようにするために、僕は自分を擁護するのです…。
“よっぽど、僕のほうが疲れていますよ” アピール
“僕もこんなに一生懸命に疲れていますよ” アピール
寛子はそれで喜んでくれるはずがありません。
だって、僕が自分のために、自分を擁護するためにしていることなのですから…。
結局、それは寛子のためにやっていることではないのですから…。
本当に彼女が喜ぶこと…
・私よりも元気でいてほしい。
・私が働いている時間にもっと楽しんでほしい
・私が帰宅したら、笑顔で待っていてほしい
・私がへとへとなのだから、潤治だけは気力を充実させておいてほしい
・そして、マッサージや美味しい食事を作ってほしい
・何より人生を楽しんでほしい
…などなど。
なので、今はそれを心がけています。
罪悪感に自分の心の針路を取られずに、
被害者になってしまって心の負担を減らそうとするよりも、
僕が楽しめることに時間とエネルギーを使っています。
“ありがとう、寛子” と思いながら、
映画を観たり、美味しいお店に足を運んだり、読書をしたり、散歩したり、
好きな食材で料理をしたり、美味しいレシピ開発をしたり、ぼーっとしてみたり…
結局、そのことが彼女を喜ばすことにつながっていきます。
何より、楽しそうにしている僕をみることで、彼女のこの忙しさは報われます。
「おばあちゃんの重い買い物袋の法則」
「優先席でがっつり疲れているふりをする法則」
今では、笑い話ですが、当時の僕は笑えませんでした…。
「両手を常に空けておいて手伝える」
「席に座らないでもいられる気力、体力を持ち続ける」
そのためにできることは?
「今、僕にできることはなにか?」
少なくても、一緒になって重い荷物を持って疲れ果てることでありませんでした…。
講師 寛子の忙しさはまだ続く…。