いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
AQUA MIXT 潤治です。
夫婦でアサーティブネスについて講演することが決まり、アサーティブとは!と勇み足気味な僕です。
アサーティブネスとは
「優しい自己主張、他人も自分も尊厳を守ったまま
自分の意見を伝える」という翻訳になるでしょうか。
「優しい自己主張、他人も自分も尊厳を守ったまま
自分の意見を伝える」という翻訳になるでしょうか。
自分の意見を伝えるというと何だか恰好良いですね。
「待って、今、わたし、自分の意見を伝えているの!」
「俺、自分の意見を伝えなきゃって思う。」
「各自、自分の意見を伝え合って!遠慮せずに。」
「僕の意見を伝えきるって決めたんだ。」
残念ながら、我が家ではそのようなドラマのようなシチュエーションではなく、
日常の些細な対話にアサーティブでいるか否かのせめぎ合いがあります。
暑い日の昼時、僕は素麺を食べたいと思っています。
その矢先、昨日オープンした近所のベーグル屋に行ってみようよと
寛子が嬉しそうに提案してきます。
「じゅんちゃん、国産小麦を使用して、
卵、バター、牛乳を使っていないベーグル食べたいって言ってたよね?」
無邪気に僕の過去の発言を掘り起こして、
あたかも僕が望んでいるかのように
既成事実として固めてくる寛子に(僕が勝手にそういう見方をしているw)、
僕の「YESマン」が現れます。
このYESマンはやっかいで明確な意見を持つ人になびきます。
僕の意見よりも、明確な意思を持っている人になつきます。
どうですか?
僕の中にいるYESマン、あなたの心の中にはいますか?
そして、明確な意思を持っている寛子はどんどん話を進めます。
「産直野菜で買ってきた茄子、ピーマン、トマトを使って
カポナータ(野菜たっぷり、シチリアの夏の定番料理)なんてどう?
ベーグルと合うと思わない?」
完全にイメージされた寛子の未来に僕のぼんやりとした素麺のイメージは無力です。
つるつるって食べたら美味しいだろうなぁくらいのイメージですから。
付け合わせは?薬味は?めんつゆ作ってある?
ぼんやりとした僕のイメージは明確な意思の前に駆逐されるのです。
しかし、アサーティブであろうと日々是実践の僕ですからw、
そこに今までの学びが試されるわけです。
・ベーグルも美味しいなと考え方を変える、視点を変える
→大人な対応ですね、恰好良いです。
・相手が喜ぶなら ベーグルを食べて喜ぶ相手の顔が見たいから…
→相手に依存しているかもしれない自分に気づけるかが分かれ道です。
・なんとなく腑に落ちないながらベーグルを食べる
→そして、やっぱり我慢していたことに気づくという遠回りです。
・無意識に財布を忘れて、ベーグルを買い損ねる
→嫌な仕事を引き受けて失敗の多い部下のような感じでしょうか。
・自分の意見を通すために妙に反応的になって相手にいちゃもんをつける
→ベーグルって固くて丸いから嫌だなぁ…、お店の雰囲気が嫌だからというように。
僕のとった行動は、
夕飯にベーグルを楽しむ寛子と小葉を見ながら、
「素麺食べたいから、茹でるね。」と伝えただけです。
もちろん、僕はあまりベーグルには手をつけませんでした。
自己主張に不慣れな僕は、自分の意見を伝えるということに
過剰反応しているのだとここ数年思います。
猫を見て、虎のように怖れるのは道理に合いませんが、
その姿が過去の僕の「アサーティブになる」ということへの怖れでした。
言い合いは言い争いではない。
この当たり前のことを意見の違いや衝突を過剰に避けようとする僕には、
なかなか受け容れることができませんでした。
寛子は意見をすりあわせて新しい道を創り出すことにパートナーとの愛を感じるようです。
寛子が愛と思うものを僕は怖れているのですから、
このふたりがパートナーシップを紡ぐことに
どれだけ学びが必要だったか想像に難くないと思います。(現在進行中)
言い合い=言い争い という図式は両親から受け継がれたもので、
知らず知らずにしてきたわけですね、僕は。
相手のために という綺麗な言葉で本当の自分を見ないでいれば…、
その閉じられたドアを寛子がきちんとしっかりとノックしてくれます。
いくつあるんだ?その扉?と日々是実践のアサーティブネスなのでした。