「ライフワーク一歩前の物語」シリーズで僕のライフワークへの道のりを書いていますが、その道のりは振り返ってみれば必然であり、そこにはたくさんの祝福がありました。
結果ありきで行動しようとする傾向がある僕は意味のあるなしをとても氣にします。
それをすることに意味があるか、結果は伴うのか、成功するのか?などを考えて結局は何も行動しないというもっとも愚かな選択をするわけです。
「ライフワーク一歩手前の物語『バスに乗り遅れるな理論』」では、自分が夢に向かって生きることの大切さを感じ、行動を起こしていきます。
しかし、残念ながら、意味や結果、成功するかしないかを重要視し、または氣にし過ぎて「自分がどう感じているか」をあまり見ずに行動し続けました。
自分ではない自分なので、いたるところにつじつまが合わない言動が増えました。至極当然のことですが…。
それはそのまま「恥ずかしい過去」「汚点」として処理することもできますが、今ではいい教訓となって進むべき道を照らしてくれます。
「僕にとって成功するということはどういうことだろうか?」
「心地いい人生、安らぎに満ちた人生とは一体何?」
「自分が何を感じているか、問い続けたことはある?」
「僕の魂はどのような人生を求めている?そして、それなら今日1日をどう過ごす?」
僕たちは自分自身を感じることもせずに、反応した感情で他人とつながろうとすることがあります。(僕だけ?)
反応した感情とは、無価値観や空虚感、嫉妬や劣等感などでしょうか。
強くつながりを訴えるという意味では「怒り」もそうかもしれません。
「愛と求める叫び」を他人にぶつける前に、自分が何を求めているのか見たらいいと僕自身思います。
誰のものでもない、自分の感情や思考、身体の声や痛みは僕たちに生きる指針ばかりではなく、確固たる自信や勇氣を与えてくれると感じます。
他人との境界線を引けないような罠はたくさんあります。
つまり、それは自分が何を求めているのかをかき消してしまうものかもしれません。
誰かが海外に行くのを知ると自分も行きたいと思う。
誰かが資格を取って活躍していると自分も資格を取って活躍したいと思う。
成功者の苦労話を聞くと苦労することを大切だと思い込む。
誰かの立派な姿を見ると劣等感に苛まれる。
他人にないがしろにされると拗ねたように空虚感でいっぱいになる自分を選択する。
自分にはできない誰かの成功を見るとどうせ自分には無理と無価値感に浸る。
ライフワークとは、自分の愛と感謝を表現することと本田健さんはその著書に書いています。
自分に感謝しない人が外に向かって何を表現するのでしょうか?
「僕は慈しみを自分自身に持っているだろうか?どうすれば感じられる?」
「僕の身体を僕は愛しているだろうか?どのように愛せる?」
頑張るという行為も、自分が我慢さえすればという無理も、自分じゃない誰かになろうとする嘘も、
自分に感謝するということから遠ざかることなのではないかと思います。
それはそのままライフワークから遠ざかることになるかもしれません。
周りからどう見られるかを氣にして偽ライフワークをアピールするなんてどうでしょう?
お金がその影響力を持って襲ってきたらどうでしょう?「夢が買えるよ。」「豊かな生活ができるよ。」「たくさんの人をお金で救えるよ。」「恩返しできるよ。」「バカにした奴らを見返せるよ。」「あなたはお金に翻弄されたりしないよね?」
今一度、問いたい…。
「わたしはわたしを心から愛している?」
「そのために何を選択している?」