人生の呪縛シリーズのメールリーディングも今月いっぱいが受付期間となります。
もちろん、通常のメールリーディングは常時受付ですが、自分の中にある「呪縛」に氣付づくために、この機会を試してみるのもいいかもしれません。
おどろおどろしいテーマが多いので、葛藤したお問い合わせをいただくことがあります。
今までのテーマは、「罪悪感」「執着」「強迫」「裁き」「復讐」「犠牲心」です。
自分自身の中にあるダークサイド(心の闇)を受け容れることは、とても面倒で、やっかいで、遠ざけたいことでもあります。
しかし、すべてのものが完璧にバランスが保たれているとしたら、
すべての創造物がそのままで調和がなされているとしたら、
僕たちのそうしたダークサイドもまた、その人生に必要不可欠なものであると言えるかもしれません。そういうところを見ないようにして、隠す傾向が人にはあります。誰だってジキル博士でいたいし、ハイド氏を檻に閉じ込めておきたいものです。(僕だけ?)
ライフパーパス個人レッスンでは、準備編・行動編・発展編と常に自分の動機と向き合います。その動機をはき違えていると人生はとても混乱すると感じています。僕自身も表面だけを飾り立て、中身を偽っていた動機を「本当の自分の動機」だと思っていましたから…。
しかし、そのことに氣づこうとすることは、本来のパワーを取り戻すことでもあり、本来の自分に還ることでもあります。
自分を知ることで、その魂が望んでいる人生を感覚的に知ることができます。
僕たちは多くの人たちの先入観、思い込み、認識、固定観念やレッテル、偏見や常識、差別などの紋切り型の観念に汚染されていて、その喧騒の中で自分を見失うことがあります。
子どもの頃に感じていた感覚を大人になるにつれて忘れていきます。
社会(世間)に適応しようとして、自分の声よりも常識やルールを過大視します。時には世間に迎合して、ミイラ取りがミイラになることもあるかもしれません。
ミイラになった自分を肯定するために、「未ミイラ」の他者を否定することもあるでしょうか。
そのような人たちが大多数を占める世の中だとしたら、その中で自分の人生を生きようとするなんて、とても大変なことに思えるかもしれません。
- やめたほうがいいよ
- 騙されているんじゃない?
- 誰もがかかる麻疹のようなものだよ
- その歳で、そんなことを言う人、おかしいと思われるよ
- 無難でいいじゃない?
- 危ない橋を渡る必要なんてある?
- 意味ある?そんなことをして意味ある?
- せっかく築きあげてきたものがあるのに…
これらの言葉は僕が「自分らしく生きよう」と思って、周りの友人たちにそのことを宣言した後に襲ってきたものです。
残念ながら、僕の熱すぎる情熱は周りからの疎ましがられました。
そして、自分の人生を生きようと思った途端に現れた自分自身の「ダークサイド」に激しく落ち込みましたし、そんな自分を認めたくはなかったし、逃げ出したいほど恥ずかしかったことを覚えています。
「ありのままの僕」なんて、卑小で、自分勝手で、暴力的で…、
正直、直視できませんでした。
罪悪感、執着、裁き、強迫、復讐、犠牲心…などが自分の中にあり、それに突き動かされていた、今までの人生を肯定するなんてできるのか?と疑心暗鬼の日々が続きました。
「ああ、出家でも出来たら楽なのか?」
「どこかに属し、傷を舐め合い生きられたらその心の痛みは消えるのか?」
「もう、『自分』を丸投げして他人の操作に乗っかった方が楽なのか?」
とよく思いました。
残念ながら、その日々もあまり長くは続かず、「自分を表現する」という未知の領域に踏み込んでからは、それらのダークサイドに感謝することが増えました。(ライフパーパス個人レッスン行動編や発展編で実践します。)
先んじて失敗、挫折をすることは、他者への貢献になることを知ったからでしょうか。
自分の中にある呪縛は、才能を発揮するスイッチのように今では感じています。
人生で隠してきたことは何でしょうか?
そのおかげで機能してきたことは何でしょうか?
僕のハイド氏にはその問いをよく言って聞かせています…w。