娘の小葉も、今年は5歳になります。
自分の要望をよりいっそう伝えるようになり、自己主張がはっきりとしています。
アサーティブな姿勢を飾らずにありのまま振る舞っています。
泣きたい時は泣き、はしゃぎたい時は限界まではしゃぎ、甘えたい時は全身で甘え、嫌なものは嫌と言い、「天真爛漫」と「傍若無人」を足して二で割るような感じでしょうか。
とてつもなく可愛いと思ったり、憎たらしく厭うような気持ちも出てきたり、僕の心は忙しい日々です。
新しい家族を心から望んでいたはずなのに、親として立たされる場面場面にテンパる日々とも言えます。
子どもを第一に考えると、いつの間にか夫婦がパパとママになってしまい、
その役割を全うすることに意識が向き、自分へも相手にも辛辣な姿勢になりがちです。
結局、お互い「甘えたい」という気持ちを上手に表現できずに、苛立つわけです。
時には、自分でも気づかないうちに我慢を自分に強いる癖があります。
もう、我慢とも思わないほどに身についてしまった自分への暴力ですね。
それが親というもの、みんな我慢している、甘えている場合じゃないよ、と誰かからもらった価値観で自分を責めてしまうこともあります。
「うん、いいよ。」「大丈夫、大丈夫。」
「やっとくね。」「あんまり無理しないでね。」
「たいへんでしょう?」
と相手に向かっては言えるのに、自分に向かって言えないところがあります。
それこそ、親業を修行のように、自分勝手な求道心を持って突き進むこともあります。
小葉が全身で寛子に甘えている様子をほほえましく見る自分もいるのですが、その小葉を妬ましいと感じることもあります。
我が家の「長男」は寂しがりやで甘えん坊ですから。
その「長男」がパパという役割を演じようとするわけです。
寛子とふたりになってそのことを共有することがあります。
「僕は、小葉に嫉妬しているんだよね。
僕だって甘えたい!パパである前に潤治なんだッ!って。
小葉に意地悪したくなっちゃうもの。」
その意地悪を「親としてのしつけ」と正当化することもできますが、それだとより複雑な親子関係、夫婦関係になるでしょう。
娘から受ける祝福を取捨選択して受け取ることはできないようです。
人生のすべてを受け取るということは、精神的な成熟を求められるなぁと感じています。
せめて娘が羨ましいな、という軽い感覚まで僕自身を癒して、成長していきたいと思います。
そのために、夫婦の時間はとても大切であり、甘えん坊将軍は甘えるのが仕事なのです。
甘え方も分からず、途方に暮れることもありますが、自分の中に湧き起こる「妬ましい」という感情をそのまま感じていきたいと思います。
そういう感情が他のパパに当てはまるかわかりませんが、嫉妬という感情を何か違うものにすり替えることは家族にとってあまり良い結果を生まないと感じます。
人のせいにしてぬるいこと言ってるんじゃないですよ。
ぐずぐずしとるんじゃなかっ!ケツの穴のちいさか男たいね!!
―野田 恵(のだめ)ピアニスト