パパにツッコミをしてくる年頃となりました。
「電車でなくて、ロマンスカーでしょ?」
「泣いたら、ティッシュでしょ?」
「それはパパが悪いねぇ~。」
また、ママを慰めることもあります。
「ママ、小葉がついているからね。」
「小葉が守ってあげるからね。」
「ママ、本当、大好き!」
その言葉の選択とタイミングにおののきながら、
子どもの愛は無条件だなぁ…と思う日々です。
さて、そういう彼女も自分なりの「こだわり」があるようです。
なぜ、そこに?という場所にシイタケを干していたり、
朝のお着替えも、お散歩も、食事も、入浴も、就寝も、
親主導では「イヤイヤ」を連発、もしくは反抗しながら遊びます。
その泣き叫んだ彼女に、親としての尊厳を振りかざして
激しく注意をするという感情ゲームにハマることもありました。
「こうしたほうがいいじゃない?」
「なんでこうしないの?失敗するに決まっているじゃない?」
「食べ物を粗末にして、駄目でしょ?」
「お風呂に入らないと汚いからね。」
「疲れているんだから、早く眠りなさい!」
「お尻丸出しで恥ずかしいでしょ?」
親の立場からだといかに自分が正当なことを
心では感じているので、ほんのりと罪悪感があります。
「何か?間違ったことを言っているつもりはありませんけど?」
「しようがないでしょ?言わないとわからないじゃない?」
「親として当然じゃないですか?親としてぇ~!もう!」
と世間に向かって弁解、弁明、弁護したい氣持ちです。
自分の価値観を見直し、アプローチを変えてみました。
朝のお着替えは、「着替えたくなったら、教えてね。」と言って
自分たちの着替えや朝の家事をしていると、そのうち、
「着替えたくなったよ!お着替えする!」と声をかけてきます。
どうして着替えをする必要があるのか?を
彼女に考える時間を取らせていない自分に気づきました。
お散歩も、彼女の行きたい場所、歩くペース、どうしたいのか?を観察します。
わたしがしたいようにしたい!
やがて、両親の言葉が彼女に届くようになります。
すると、「おうちに戻りたい、手を洗いたい。」と砂だらけの手で訴えてきます。
彼女自身、自分でどう決着をつけて良いのか分からずに
こちらはちょっとパスを出すだけです。
食事も変なテンションで食べ物を投げたり、遊んだりすることがあります。
反応して不機嫌になったり、怒っていた僕ですが、
表出した言動ではなく、違うところに原因はあることに気づくようになりました。
わたしもパパとママのようなお椀で食べたい、一人前を自分だけで食べたい、
取り分けて欲しくない、自分で食べたい、放っておいてよ。
彼女の本意はそこであり、
パパとお風呂に入ってくれる機会が極端に減りました。
ママと入って、おっぱいを触りたいようです。
また、お湯で髪を洗い流すだけが良いとか、冷たい水を浴びてみたいとか、
眠くなってしまうので湯船に浸かりたくないとか…、
親のペースや、こうあるべきでしょ?というものさしで彼女を計ることは
ある意味失礼なことだったのだと感じます。
子どもの「侵して欲しくない領域」を理解するには、
親である僕たちが「待てるゆとり」を持てるかどうかにかかっていると僕は思います。
小葉に正当性を振りかざしてしまうので、
何事も用意を早めに済まし、周辺の段取りをしておき、
いくら時間がかかっても良いから
「あなたの納得を優先させてねモード」にします。
結局、そういうモードにしていると、
小葉は自分の尊厳を保たれたと安堵します。
そうすると、
「パパとママね、もうすぐお仕事だから、おうちに戻りたいんだ。良いかな?」
と訊ねれば、「いいよ!婆と待ってる。」と言ってくれるし、
放っておかれた時、何かもどかしそうにイライラしていれば、
「お手伝いすることはありませんか?助けて欲しいことはありませんか?」
と働きかけると、「手伝ってぇ!」と声をかけてくれて、
意固地になることはありません。
子どもの「納得したい」というそのペースやタイミングを親がどれほど理解し、
待てるゆとりを自分自身に作るかはとても大切だと僕自身思っています。
小葉の意固地になる言動は、
僕たちの発達段階において、
「自己認識」「自信」「セルフイメージ」
を確かめているところなのだろうと感じます。
この「受け容れてくれた」「尊重された」という日常の些細な積み重ねが、
彼女の未来を創っていくのかもしれないと思うと、
パパの思う「~してくれない」視点が癒されます。
お着替えしてくれない!すんなり外出してくれない!用意してくれない!
いつまでも寝てくれない!お昼寝してくれない!なかなかお家に戻ってくれない!
…などなど。
そもそも、そんなに「~する必要があるのか?」と
次の日に響くとか考えて眠る必要ある?お昼寝する必要ある?
娘に怒ってまで家に戻る必要ある?
…などなど。
僕の中に「する必要は無かったのに、子どもの頃に頑張ったこと」があり、
その氣持ちが自分の中で納得していないのだろうと思います。
その「癒されていない自分」がいるのだろうと、
娘の小葉が意固地になった時の怒ってしまう自分を観て思います。
怒る必要や諭す必要なんて無いのだもの。
ですので、小葉と一緒に考えます。
「どうしたら、良いかな?どう思う?」
「このままでいるとどうなる?」
「いい気持ちになるためにどうすれば良い?」
「ママを喜ばせるために何ができる?」
「小葉の思うお姉ちゃんってどんな人?こんなことするかな?」
「どうしてパパやママが伝えたいか考えてくれるかな?」
子どもの「考える時間」を与えることが
(彼らは考えたい、感じたいのだから。)
結局は親自身の心の癒しや過去の浄化につながると感じています。
子どもの自己主張は親を試し、
自己認識を作っている過程と思えてなりませんw。
Trinity Webの記事
「エンジェル・セラピスト®夫婦のスピリチュアル子育てPART.77
~子どもよりも賢く振る舞おう(潤治編)」もご参照くださいね。