先日、「市民のためのマスク・ワクチン困り事総合相談窓口 受け手研修会」で知り合った高校生が主催するシンポジウム。
残念ながら、40〜50代が考えているような(思い出にあるような)学校とは大きくかけ離れてしまっている今の学校のことを現役の高校生たちが話してくれました。
マスクをしないだけで、別室で授業…、それも「単位」にはならないなんて考えられますか?
学校というものが、もはや教育以外の管轄からの介入も否めない状況にあることを僕たちは知る必要があると感じます。人権を揺るがす管理社会が学校という空間では起こっています。
子どもたちから見た「学校」
我が娘は、家族総意の積極的不登校です。
小学1年生の夏、彼女が「パパ、わたしは学校に行かなくてもいいんだからね。」としっかりとした意志を持って伝えてきました。
その言葉から、親が見る「学校」と子どもが見る「学校」には大きな隔たりがあるということを知りました。
「当たり前のことを…」と言われてしまうかも知れませんね。
たしかに学校は、子どもに「ああなりなさい、こうなりなさい」と命令ばかり言っています。そのほうがあなたのためなんだから…と綺麗な言葉も添えて。
娘はそういう大人の嘘に敏感です。
「パパ、幼児園の頃より、小学校は嘘が多いよ。つまらない。」
とも教えてくれました。
コロナ騒動もあり、大人の嘘は子どもたちを苦しめています。
「お父さん、メディアが嘘をついていても、わたしたちは東京都の職員です。言われたとおりにするしかありません。」
と小学校に娘のマスク不着用のお願いをしに行った時、校長先生が話してくれました。
「お父さん、わたしももう、めんどくさいの!保護者の対応やらなんやら…」とも話してくれました。
さて、小学校において…
- 決められたことは守らなければならない
- カリキュラム(教育課程)にそった勉強
- わざわざ難しく考える算数
- コロナ騒動によるコミュニケーション不足
娘と話していて、娘の「小学校は嘘が多く、つまらない」という意見はもっともだと思いました。
学校は「ああなりなさい、こうなりなさい」と言ってくる
「よその国では給食を食べられない子どもたちがいます。あなたたちは、給食があります。幸せなことです。」
娘が嫌がった先生の言葉です。
つまり、「感謝しなさい」「給食を残さずに食べなさい」と意訳できます。
大人の僕が穿って訳すると「言うことをきけ!」です。
道徳の時間になれば、あるひとつの「共通認識」を植え付けるための物語があります。
こういう場合はこうしなさい…という「考える力」よりも「同調する力」「不協和音を怖れる」ことを教え込んでいるように思えます。
学校側がそのように「ああなりなさい、こうなりなさい」と言えば、他人に対して「ああなりなさい、こうなりなさい」と言う人間が育つのではないでしょうか。
クラスの中でも、子どもたち同士が、お互いに「ああなりなさい、こうなりなさい」と言っています。特にマスク警察(ソーシャルディスタンス警察)を子ども同士でやっている姿は見ていてつらいものがありました。
先生がこうしなさいと言っているのに、やらないのはおかしいと我慢して従っている子からすると面白くはないでしょう。
自由な人間の足を引っ張ろうとする子、または、感情的な葛藤を覚えたくないので考えない子が生まれていきます。
「ああなりなさい、こうなりなさい」と学校側が言うことは、愛とは真逆のものを生みだすだろうと今の大人を見ていても思います。
自由な好奇心と理由なき情熱に身を任せよう
誰かに命令・指示されてやることを娘はひどく嫌がります。2,3歳のイヤイヤ期からそうです。
学習効率も、自身の意志が尊重され、自らそれを模倣しようと思った時が一番良いとされます。幼児は自分の意志で勝手に模倣することで育ちます。わざわざ話すことを大人が教える必要はなく、自分たちが話す言葉が真似されていくと自覚すれば良いだけです。
大人がするように、子どもは育つ、わけですね。
娘が幼児期の頃には、僕が掃除をすれば、そのお手伝いをし、料理をすればそばで見ていてやりたがりました。きっと、自分の意志で真似したときに、やりたい氣持ちと身体が連動するのでしょう。
一緒に何かをすることを小学3年生の今もリクエストしてきます。
その一緒に何かをして、一緒に考え、氣持ちを分かち合うことから多くを学んでいるようです。
大人が勝手に考えた「遊び」「娯楽」に、娘はきちんと「NO」を突きつけてきます。
その時の娘の「やりたい」「みたい」「知りたい」という欲求に、できるだけ応えられるようにしています。
大人が「学校」のことを考え、「教育とは何か?」を考えることで未来を創造していけるのではないでしょうか。