いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
AQUA MIXT 潤治です。
前回の「自分らしく生きるのはわがままかしら(1)」の続きになります。
「自分らしく生きることが世界への最大の貢献」
と綺麗な言葉があります。
自分らしく生きること、魂が望む通りに生きること、
魂が喜ぶ選択をすること、自らを解放し生きること、
それらは周りの人たちを自由にすることにもつながります。
など、天使のメッセージには、たまに
KY(空気の読めない)なものがあるように僕には思えます。
レシピの知らない料理を作らされるような気持ちです。
牡蠣とほうれん草のラザニアの出来上がり写真を見せられ、、
「このスープ、出汁は何を使っていると思う?」
「ある調味料を使わないとこの味は出ないんだよね。何だと思う?」
「味の決め手はある野菜の煮汁なんだ。何だと思う?」
「さぁ、作ってごらん!」
いきなり真実を突きつけられて、
後は見よう見まねで真似してごらんと言われても、
それを人生に活かすために、どういう人生のレシピが必要なのか
分からない時も、途方に暮れる時もあります。
「自分らしく生きることが世界への最大の貢献」
と思って、実践していると他人から
わがままだ!自分勝手だ!迷惑だ!
あなただから許されるのよ!あなたはずるいよ!
誰かを犠牲にしていること分からないの?
と言われ、自分らしく生きるなんて面倒で、厄介なことなのではないか?
と思ってしまうかもしれません。
現に寛子が自由に楽しそうにしていると、
「あなたが軽い選択をすると、誰かがその重さを引き受けるんだからね!」と
相手に罪悪感や後ろめたさを生ませようとする僕がいました。
寛子にとって、僕はとても面倒で厄介な足を引っ張る存在だったのです。
自分らしく生きようとする人の周りにはこういう人(→潤治)がいます。
茶茶夫(ちゃちゃお)です。
※「茶茶:妨害。他人の話の途中で,横から入れるひやかし気味の冗談をいう。」
寛子が「わたしにとってその選択は軽い?重い?」と言い出すと、
ちょっとちょっとと茶茶夫の邪魔が入ります。
誰かが幸せになる時、誰かがどこかでその分の不幸せを引き受けている…
「陽」のあたる所、必ず「陰」があり…、幸福のある所、必ず反対側に不幸な者がいる……「幸せ」と「不幸」は神の視点から見ればプラスマイナス「ゼロ」!(「ジョジョの奇妙な冒険 スティール・ボール・ラン」ファニー・バレンタイン大統領の言葉より)
ゼロサムの囚われは、
僕の寛子への姿勢に大きく影響していました。
※「ゼロサム:ゲーム理論に由来する言葉。総和がゼロであるの意
ある社会やシステム全体の利得と損失の総和はゼロであり、
ある社会やシステム全体の利得と損失の総和はゼロであり、
一方が利益を得れば必ず他方が損失を出すということ。」
自分らしく生きて、幸せを感じることは、
誰かを牢獄に閉じ込めて、不幸にするのでは?
という囚われです。
また、そこまで言わなくても、誰かに迷惑をかけてしまっているのでは?という
後ろめたさ、罪悪感でしょうか。
僕は自分らしい人生を生きると言っておきながら、
寛子がより自分らしい方向に舵を取ることを妨害する
というアホな状態を体験しました。
その発端になった記憶は、中学生の頃、受験で友人の言った言葉です。
「オレがこの学校に落ちると誰かが合格するのかなぁ?」
今ではそれが御門違いな発想だと思いますが、
(何、格好つけてやがる!と当時の彼に言いたいw
っていうかお前の学力の無さを綺麗な言葉で書き替えるな!wと。)
それは社会に出るほど強化され、僕のある思考癖になりました。
ようやく、スピリチュアリティを扱い、仕事にしていく中、
その思考癖、観念は外れたと思っていましたが、より違う局面で発現したようです。
ありがたや、うらめしや…。
ゼロサムの囚われ、あなたにはありますか?
続く…