ママ友と家族ぐるみでお付き合いすることを小葉が生まれてくる前には想像しませんでした。
あれほど、斜に構えて見ていたよみうりランドもサンリオピューロランドも、今では株主優待券を得たり、年間パスポートを購入するほど楽しい場所になっています。
自分ひとりの価値観では、ありえない選択を小葉のおかげですることになっています。
ママ友とのんびりと休日を過ごすことも増えました。子どもたち同士も幼児園以外での交流を楽しんでいます。
幼児園では、先生が子どもたちをまとめ、指導するわけですから、あまり子どもとしての甘えやエゴは出しにくいのでしょう。
休日のこうした時間を子どもたちは嬉しそうにハメを外して自由に遊びます。
そのような中、子どもたちがハメを外しすぎて、お互いの親が子を叱る時があります。
それは周りの人たちに迷惑がかかるという理由もありますが、子どもたちの言動で親の価値観が揺るがされ、親が過度に反応しているという側面もあります。
親の価値観を揺るがすとは?
例えば、子どもたちが集まると、保護者はお菓子を与えることが少なくありません。
我が家では、積極的にお菓子を小葉に与えることはありません。手作りを重視し、工業製品は好みません…という価値観が僕も寛子も一致した意見です。
遺伝子組み換え、白砂糖、人工甘味料、加工でんぷん…。
素粒水が我が家になかったら、ママ友たちとのお付き合いにも積極的になれなかったかもしれません。(素粒水についてはこちら)
ですので、小葉は子どもたちが集まる場所でお菓子が出てくると、めずらしくて貪り食べることもあります。しかし、理性が働く時は遠慮することも覚えました。
そして、他の子がお菓子を貪り食べる姿を見て、不思議に思うこともあるようです。
「お菓子ばかり食べると怒ったり、愚図るようになるのにねぇ。」と話しかけてくる小葉に影響力のある僕自身の言葉を反省します。
子どもたちは、親の教育、しつけや価値観を背負って他の子たちと交流するわけです。
それが休日の子どもたち同士での遊び場では浮き上がってきやすいようです。
「時間を守らないとダメなんだよ!」
「踏んだらかわいそうだよ!アリさん。」
「花を摘んだらいけないんだよ!」
「綺麗に食べようよ。」
子どもたちの言葉はそのまま親の価値観を表現しています。
ママ友とのんびり遊ぶと、そうした子どもたちの言葉に親の価値観が透けて見えるので、とても面白いです。もちろん、僕の価値観もママ友に筒抜けですw。
しかし、親子で時間を氣にしながら、忙しく遊びまわると子どもたちがそのエゴやわがままを表に出さずに我慢してしまうことがあります。せっかくの各人が持つ価値観のシャッフルが起こりにくくなってしまいます。
早いうちにこうした親の価値観を背負って子どもたちが交わっていることを、子どもたち自身で感じて欲しいと僕自身は思います。
多様性を学べることはもちろんのこと、それが絶対的な価値観ではなく、単に親の影響で受け継いだものであり、自分自身が再度、選択できるということを理解して欲しいわけです。
ある価値観を絶対的なものとして、他人を攻撃、排除する人もいるかもしれません。自然派パパの苦悩…w。
大人になるにつれて、ある価値観を絶対なものとすること、ないでしょうか?
その価値観を持つことが「許されている」としたらどうでしょうか?正しいのでもなく、正義でもなく、絶対的なものでもなく、当然のことでもなく、ただ、「許されている」わけです。
そうして、許されている自分を感じることで、相手の価値観に透けて見える痛みや怒り、悲しみが見えてくるように思います。それはそのまま相手への理解、寛容さにつながります。
小学生高学年、中学生あたりでこの多様性への耐性、理解はテーマになるかもしれません。大人になっても自分が正しいと思って人を否定、攻撃する人がいるわけですから、成熟する必要はあるかもしれません。
僕の「女性は全てショートカットヘア、ノースリーブハイネック着用のこと!できればニーハイソックスで…。」という価値観は「許されている」だけです…。