僕のコンプレックスは僕ではない人たちの数だけ発生する

魂の使命・人生の目的

AQUA MIXT のオンラインサロンで、盛り上がっているテーマ、「コンプレックス」。

コンプレックスとは、「劣等感」を意味することが多いです。

精神分析の世界では、感情の複合とされる場合があり、抑圧している感情が複雑に現実世界に投影され、あたかもそれが現実であるかのように意識することを指すことが多いようです。

要するに、自分自身の感情を扱いきれずに蓋をしていたものがファンタジーとして表出し、現実世界を創り出すこと、とも言えるかもしれません。

自分で創り出した世界の中で、自信をなくして人生の迷子になったり、被害者になったりすることがあるわけです。

自作自演、一人芝居、マッチポンプ…など、自分の愚かさを笑い飛ばす時に僕が使う言葉ですw。

遠い昔、思春期の僕にとって、片親であることはひとつのコンプレックスでした。

「僕は通常の(テレビでよく目にする…)家族というシステムには当てはまらない人間だ。」

というほんの些細な「人と違うのでは?」という疑問がその後、いろいろな変幻をとげていくわけです。

  • 「どうせ、片親ですからね。」という被害者意識を育むために。被害者という最強のカードを手にするために。
  • 「片親ってことをバカにしてんのか?おう?」という他人を攻撃する大義名分に。
  • 「俺ね、片親で大変だったんだよね。泣いて過ごした夜もあったかな…。」と自己憐憫からの女子を口説くきっかけに。
  • 「片親の俺をバカにするんじゃない!見返してやる!」という自分へのカンフル剤に。燃え尽きること必至…。

などなど、感情はさまざまに複合し、無意識下で「PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)状態」になっていくわけです。

自分を破壊するために、自分の中にある劣等感を見つけることもあるかもしれません。(あら探しかも?)

僕で言えば、片親であることのほかに、社会人からドロップアウトした社会不適応者であること、一軒家に住んでいないこと、デザイナーズマンションに住んでいないこと、大卒でありながらスーパーマーケットに勤めたこと、自家用車がベンツでないこと、山手線沿線に住んでいないこと、などなど。

そして、身体的なことで言えば、無尽蔵にあるかもしれない。

顔は金城武に似ていないところ、彫りの深い顔でないところ、速水もこみちやオダギリジョーよりも背の低いところ、ジャニーズ事務所からお呼びがかからなかったという幼少期のトラウマすらあるわけで。

勇氣を持って告白するならば、今なお、大晦日のジャニーズカウントダウンライヴでは、その場にいられないことへの劣等感があります。KinKi Kidsが3人組だって良かったじゃないか!Hey! Say! JUMPにひとりだけおじさんが混ざっていても良いじゃないか!とコンプレックスにのたうち回ります。

また、トムクルーズのように英語をネイティブで話せないところ、映画「ラスト・サムライ」にあれだけのエキストラが選出されたのに、僕は出演できなかった悔しさもあります。

僕のコンプレックスは、僕じゃない人の数だけ発生します。

コンプレックスは探せばキリがないわけで、今でさえ、ピューロランドダンサーのように踊れないことがコンプレックスのひとつです。

コンプレックスは劣等感という側面だけではなく、自分という人間をどれだけ理解し、労いと優しさを持って接することができているかを問われている機会だと僕自身は思います。要するにお知らせのチャイムです。

コンプレックスは克服するものではなく、自分を深く受け入れるための機会提供のように感じます。

もちろん、人生の遅延策としても働きます。
また、自分を虐げることで人生の不戦敗を画策することも出来ますから。

本当は自分の才能を発揮して、素晴らしい自分を受け入れる時が来ているというお知らせなのですが、それを受け入れるほど、感情は成熟してない、いや、させない状況は多く存在すると僕自身は思います。

自分にとって大切なことをする以外の時間に、溺れるほど人生は長くはない、かもしれません。

タイトルとURLをコピーしました