恥ずかしいという感覚はいつ頃から、自分のものになったのだろうかと思う時があります。
娘の小葉も4歳になり、恥ずかしがることも増えました。
そのタイミングは、全然こちらの予想に反するものが多く、同い年の子の前で裸になることを厭わないと思えば、近所の人に挨拶することを躊躇したり、恥ずかしがることもあります。
僕たちは大人になるにつれて、恥をいう感覚を手に入れていきます。
「もう、いい大人なんだから…。」と自分を制止したり、恥に思ったことはないでしょうか?
そして、それを強化することもあります。
「他人に笑われるようなことをしてはいけない。」
「恥をかくようなことをしでかしてはいけない。」
など、強い思い込み、信念、決めつけを自分のものとしていくのでしょうか。
これらの思い込みは、僕たちが人生に受け身になるほど、強化するスピードを上げていくように思います。
周りにいる失敗者に自分の思い込みを投影し、自分は失敗者にならないぞ、と思ったりもするでしょうか。
自分らしく生きよう、自分を信じて歩もうとする時、間違いなく「恥ずかしい」という感覚は立ちはだかります。それを面倒臭いという感覚で味わわなくても良いようにすることすらあるでしょう。
面倒臭いには、何か違う怖れが隠れています。
さて、この「恥ずかしい」という感覚とどのように付き合っていけば良いでしょうか。
心理療法には、「羞恥心克服法・羞恥心粉砕法」とおどろおどろしい(潤治主観)ものがあります。
ちょっとした荒治療です。
たとえば、異性恐怖症の人が、公園などで出逢う女性に声をかけてみるわけです。それがどんな声かけでも、笑われるようなことでも良いのですが、それをしていくと、次第に羞恥心に対する認識が変わっていくというものですね。実体のないもの(おばけ、幻)を上手に創造し、それに怖がっている自分に氣付きます。
もう、ひとり芝居ですね。その「恥ずかしい」は…。
そして、僕たちは「無限の存在」と言われますが、儚く卑小でか弱き人間でもあります。
その等身大の自分を認めたところで、僕たちの無限の存在としての可能性に全く影響はないと知ることが大切かもしれません。
儚く卑小でか弱き存在である自分を、隠せば隠すほど、羞恥心は強化されるでしょうか。
そして、考えてみると「恥ずかしい」は誰から受け継いでいるのでしょう。
昔は、恥のために「はらきり(切腹)」をする文化もあったのですから、先祖代々、感覚は受け継がれているかもしれませんね。
その「恥ずかしい」は誰が創り上げているもので、それを受け容れたところで僕たちにどんな影響があるでしょうか。せいぜい数十秒の心拍数の増加くらいでしょうか。
僕自身、羞恥心粉砕法は学生の頃に嫌というほど試しました。
本当は嫌で嫌で仕方なかったのですが、週末の夜の街に友人と出かけていき、街行く女の子に声をかけるわけです。もちろん、できるだけ「恥ずかしい」を試すために、自分の好みの女子を選びます。
夏祭りのある時などは、県外にまで足をのばし、羞恥心粉砕法を試すのです。
女子にまるで興味は無かった文学青年だった僕ですが、羞恥心粉砕法のために、友人と実習に勤しんでいました。
僕たちのことをまるでゴミのように見る女子もいましたし、「あれ?石ころぼうしかぶってたっけ?」と僕に思わせるほど、僕の存在が無であるような錯覚に陥らせる女子もいました。
※【石ころぼうし】:石を模した表面を持つ半球型の帽子。これを被ると、まるで道端の石のように周りから一切認識されなくなり、自身の存在を完全に消すことができる。(Wikipedia より)
この実習をし続けた結果、「恥ずかしい」という感覚は、自分が勝手に創り出している幻なのだと分かってきました。これも、学生時代の切磋琢磨したことによるでしょうか。数年にわたる実習の成果は今なお身を持って感謝する日々です。大人になると、この「恥ずかしい」を端折って、金銭の授受をすることで、そして、契約をすることで、それを無かったことにすることもできます。残念ながら、僕自身夜のネオン街で、そのシステムも試したことはあります。
ぼくたちの「恥ずかしい」は誰のもの?
そして、誰かから受け継いでいるのでしょう?