喧噪の中では見つけられない「寂しい」の向こう側

潤治の徒然草

先日、寛子と小葉が半月にわたるイタリア・フランス旅行から帰ってきました。
平和で穏やかな時の流れを過ごしていたようです。

僕のひとり暮らしも終わり、あれほどひとりになったらあれこれしようと思っていたことも、実際ひとりになるとそれほど必要ではなかったことを感じます。

今までひとりで家にいるという経験がないので新鮮な日々でした。
夜、ひとりでいるととても「寂しい」という思いが襲ってきました。

この「寂しい」は本当に厄介なものと思います。

睡眠時間も増えました。
早朝起きることもできなくなりました。
瞑想時間が増えました…w。

「寂しい」とベクトル自分向きにしている時は、自分が創造的ではないことに氣づかされました。0313b205c248960f7ee1e401e9f5fb37_s

ベクトル自分向きの感覚は、僕の視野を狭めてしまいます。

それを「家族がいること」「パートナーがいること」「友人がいること」「仕事ができること」に始まり…

「ご近所づきあい」「接客してくれる人たち」「すれ違ってくれる人たち」「近くにある季節の変化」「雨が降ること」「太陽が照ってくれること」など有機的な秩序に広がり…

「洗濯機」「冷蔵庫」「テレビ録画」「24時間営業」「水道・電気・ガス」など生活に関わることまで、意識を向けて「ありがたい」と感じてみると…

寂しいという狭い視野から、広い視野に変換されていきました。

自分がいかに足りない存在で、何かを必要としていると感じている頃は、この寂しいというベクトル自分向きの感情でいろいろな「埋める作業」をしていたように思います。

目標設定、多忙、試練、元カノに電話w、夜の街へ消えていく、理由がないと会うことのない友人と飲みに行く、嗜好品を食べまくる、未来を変えるための準備、独り善がりの人助け、規則や義務・役割ですること、突き動かされる使命感、評価を請う、嬉々とした衝動行動などでしょうか。

これらは僕の極めてえげつない偏ったものの見方と考え方に因りますw。そして、それに関わる時の姿勢によってそれぞれの行動の意味が変わります。

「今の自分が幸せであることを感じる力」は、
僕自身の人生に違った視点を与えてくれました。

尊敬されなくても、社会的に評価されなくても、幸せと感じられる世界でしょうか。
または、自分が資産であるという感覚です。

何も持たなくても、何もしなくても、存在している自分をどう感じるか?
誰かに許可を求める必要もなければ、自分に何かを付け加える必要もないわけです。

自分と向き合うとは、自分の豊かさに氣づくプロセスと言うとしっくりくるかもしれません。AQUAMIXT のサービスの数々がこのプロセスを大切にしています。

それを喧噪の中では見つけることはできないと僕自身は思います。
人は何かに関わっていたい生きものです。
(セルフイメージと密接な関係です…。)

ひとり暮らしはあらためて僕に静かな時間を与えてくれたのでした。
もちろん、スピリチュアルカウンセリングやマッサージでもこの静かな時間を体験できますからねッ、言っておきますけども。

「1週間のどんな日も、わたしはあえて他の人々と離れ、自分自身と触れ合っていたい―他の人々の中に取り込まれ自分自身から離れているよりは…」ポーシャ・ネルソン(米国のシンガー)

パートナーや家族と関わり合えることの素晴らしさを感じました。
密に関わらせてくれる存在がこの世にいてくれる奇跡ですね。

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