マスターは東儀 宗介(とうぎ そうすけ)、かつて天使だった頃の名は、メネフィール (Menephiel)。
仕事帰りや週末に通う常連OKは、小鳥遊 紬(たかなし つむぎ)、28歳。中堅デザイン事務所のグラフィックデザイナー。
静かな日曜日の午後、『刻詠珈琲店』には柔らかな陽光が差し込んでいた。壁の古時計がゆったりと時を刻む中、紬が少し慌てた様子で扉を開けた。宗介は本を閉じ、いつものように紬の好きな焙煎の具合で生豆を炒り始める。
「宗介さん、ちょっと気味が悪いことがあって…。」
「気味が悪いことって何ですか?とりあえず、座って。今、コーヒーを淹れますからね。」
紬の慌てた様子を見て、ゆっくりとしたペースで彼女を席にいざなった。
そして、香り湧き立つハンドドリップでコーヒーを淹れると、そっと紬の前に置いた。
「どうぞ、話を聞かせてもらえますか?」
紬は安心したように話し始めた。
「最近、毎日カードを引いてるんですけど、同じカードばかり出るんです!ちゃんとシャッフルしてるのに。これって、何か悪いことが起こる前触れですか?」
紬は不安そうに、何度も引いたというカードを見せた。
宗介はそのカードをじっと見つめ、ゆっくりと首を振った。
「もちろん、悪い予兆ではありませんよ。」
「え?そうなんですか?」
「むしろ、紬さんの心が、そのメッセージをまだ受けとめきれていないというサインでしょうか。」
「宗介さん、どういうことですか?」
宗介は古い手紙の束を棚から取り出した。
「同じ手紙を何度も読み返すことがあるでしょう?大切なことが書いてあるのに、まだ、腑に落ちないでいるような時に。」
「ええ、確かに、そういう覚えはあります。」
「カードも同じだと思います。メッセージが潜在意識に届くまで、何度でも手元にやってくる。それは宇宙からの大切なお知らせなんですよ。」
紬はカードを見つめながら考え込んだ。
「じゃあ、このカードが私に何かを伝えたがってるんですか?」
「そうですね、そういうことになりますね。」
宗介はゆっくりとカウンターを拭きながら続けた。
「友達に大切な話をしても、なかなか理解してもらえない時、紬さんならどうしますか?言葉を変えて、方法を変えて、何度も伝えようとはしませんか?」
「分かってもらいたいと思うほど、そうですね。」
「カードも同じです。紬さんがメッセージを受け止めるまで語りかけ続けているのだと思います。」
「でも正直、もう、このカード見たくないって思っちゃって…。」
宗介は静かに頷いた。
「そう思うこと、ありますよね。その気持ちも大切な心の声と捉えてあげてくださいね。」
宗介は窓の外を見つめた。
「『見たくない』と感じるメッセージの中にこそ、大切な答えが隠れていることが多いですよ。避けようとすればするほど、思いのほか、カードは強く、頻繁に現れるものです。」
「じゃあ、ちゃんと向き合えば、同じカードは出なくなるんですか?」
紬は宗介の言うことを真剣に聞いていた。
「そうですね。そのカードを引いた時の気持ちを、素直に感じてみてください。」
宗介は紬の目を見た。
「怖れ、不安、抵抗など、どんな感情でも構いません。その感情こそが、紬さんが今向き合うべき課題を教えてくれています。」
「そうなんですか?なんだか恥ずかしいです。単に、シャッフルが足りないだけじゃ?」
紬は自分への言い訳のために、誰かに弁解するかのように、言葉を続けた。
「物理的なシャッフルより大切なのは、紬さんの心のシャッフルです。」
宗介はカードデッキを手に取り、ゆっくりと切り混ぜて見せた。
「心が『もう知っている』と決めつけていませんか?新しい視点を拒否していませんか?心を柔軟に、開いておくことが、何より重要ですよ。」
「心のシャッフル、深いですね。」
「同じカードが繰り返し現れるのは、人生の転機かもしれませんね。」
宗介の声は穏やかだった。
「怖れることはありませんよ、大丈夫。そのカードは、紬さんの道標となりますから、正面から向き合ってみてください。」
紬は深呼吸をして、カードをもう一度見つめた。
「分かりました!このカードと、ちゃんと向き合ってみます。逃げずに。」
「それがいいですよ。紬さんなら大丈夫です。」
宗介の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
午後の光が、繰り返し現れたカードを優しく照らしている。
紬は、避けていたメッセージと向き合う覚悟を決めていた。
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