真実の愛に近づくために…

大晦日、みなさんは如何お過ごしですか。AQUA MIXTの寛子です。
昨日、4連続の年末ワークショップを終えました。
今年の締めくくりはAQUA MIXTで、と言って下さるみなさんと過ごした暮れはとても充実していて、私たちも言葉では表せないくらいの学びがありました。
この場を共有したみなさま、そして想いを向けて下さった皆さまに感謝です。
さて、今年最後の振り返りに如何でしょうか。
私の「座右の銘」として仕事部屋に飾っていた言葉です。

「つもり違い十カ条」
    一、高いつもりで低いのは教養
    ニ、低いつもりで高いのは気位
    三、深いつもりで浅いのは知識
    四、浅いつもりで深いのは欲
    五、厚いつもりで薄いのは人情
    六、薄いつもりで厚いの面の皮
    七、強いつもりで弱いのは根性
    八、弱いつもりで強いのは我
    九、多いつもりで少ないのは分別
    十、少ないつもりで多いのは無駄
(大本山高尾山薬王院)


私の中に「○○つもり」はどれだけあるのか?
常に問いかけるようにしています。
独立すると、会社にいた時のように誰かが方向性を正してくれることも、守ってくれることも非常に少なくなります。
私は7年前に、フリーランスの企業研修講師になりました。そして、なんでも一人で考えて、決めて、やらなければならなくなりました。誰にも命令されません。
もし取引のあるお客様がこの「つもり違い」をフリーランスの私の姿勢に感じた時、ただ単にその後の取引がなくなるだけでということもあるでしょう。
そんな言いにくいことをはっきり言ってくれる、教えてくれるお客様は、今後もいい関係でいたいと本当に思ってくれる場合だけです。
たった1度角度がずれていただけで、進めば進むほどズレは大きなものになります。
1度の誤差って、実はとても大きいものなんです。
だからこそ、現在でも、いつも自分自身で「つもり違い」をしていないか、問い続けているのです。
特にスピリチュアルな学びを深めて実践する立場になった時に、一番大きなテーマになるのはやはり「愛」でした。
「怖れではなく愛から行動すること」と頭ではわかっていても、実際には「愛から行動しているつもりで…」というワナによくはまってしまうので、常にその動機を浄化し続けなければなりません。
例えば…
愛という名の執着 愛を担保にした要求
 好かれたい、嫌われたくないから、相手に何か与える。
 愛しているのに… 愛しているから…
「愛と憎しみは表裏一体」とはよく言われる言葉ですが、愛という動機がエゴ(自我)にすり替わってしまうと執着や要求が強くなる。そしてそれが満たされず、憎しみに変わってしまうのではないでしょうか。
そう、いつだって私たちの「愛」という感情は、表裏一体の「憎しみ」に転じる可能性があるのです。
エゴも本来悪いものではなく自分の一部ですから、つもり違いは、いつだって私たちの中にいます。
「愛」の反対は「憎しみ」ではないのです。愛という動機をエゴにすり替えて「怖れ」に支配されてる時なんです。憎しみを浄化すれば、愛という動機が残るのでしょうね。
(ちなみに、「愛の反対は無関心」 マザー・テレサの言葉)
私自身、以前の記事でもたびたび体験を書かせていただいていますが、真実の愛とは…?という命題を常に与えてもらっています。
私の人生のターニングポイントで出逢い、天使の世界に進むたくさんの勇気を与えてくれた人がいました。
その人に対する純粋な感謝の気持ちから、応援をしていました。
けれども、何年も経ち、ある日私は愕然としたのです。少しずつ、動機が愛から行動しているつもり にすり替わっていたのですね。
「愛から行動していたはずが、愛ではなくなっていたなんて!」
愕然とし、自分自身に対する無力感や無価値観。怒りの感情。
様々な感情と向き合うきっかけをいただきました。
思い入れが強いほど、愛はエゴに変わってしまうのでしょうか。
最初の動機が純粋に愛でも、動機を浄化し続けなければ変化していくのです。
去年傷付いた私の目の前に現れた本は「愛とは、怖れを手ばなすこと」(ジェラルド・ジャンポルスキー著)のレッスンでした。
最近お気に入りのレッスンは「傷つくならば、それは愛ではない」(チャック・スペザーノ著)です。
人生は色々な出逢いに支えられていますが、これは天が与えてくれた愛の学びのレッスンなのだと感じます。そして、そのレッスンは一生続くのでしょう。
だって、愛を説く人はたくさんいても、言葉だけでは感動しません。100%愛だけで行動出来る人はいないんですもの。
愛という綺麗事ではなく、「愛を選択しようとし続ける姿」に人は感動するのです。
だから、一生かけて人は愛を学び続け、自分のエゴを静観することを学ぶのだと思います。
自分のエゴを静観した時、執着を手ばなしたとか表現するのかもしれませんが、先日そんな体験をさせていただきました。
(その時の記事「心身の声に耳を傾けてみると…(2)」)
『執着を手放した時、人は素直になるんだと思います。
素直になると、今までのことを「無」にして謝ることが出来る。
そして、残るのは感謝の気持ちと愛。』
癒しは、癒そう、手放そうと思ってすぐに起こせるものではなく、何かの行動の後に自動的に起こるものだと感じています。
私自身セラピストとして、相手を癒そうとは思うのはエゴと認識し、場に委ねて「自動的にその人の癒しが起こる場作り」に集中します。
そしてネガティブな感情を手ばなせずにいた私が、ちょっとした行動の後に急に癒しが起こりました。
そして、純粋な初心をありありと思い出すことが出来たのです。
愛と感謝に包まれた瞬間、本当に幸せで、具体的に相手に何かをするという次元を超えて、愛でつながっていられる信頼を実感したのです。
そうして「見守る愛」という形。私には辛いよ~出来ないよ~何かしてあげたいよ~となってしまっていたのですが、「見守る勇気」というものも分かってきました。
ついつい、おせっかいから何かしたくなっちゃうんですよね。おせっかいも私のエゴ。そうすることで、何か相手にしている自分に満足し、安心しようとしているんでしょうね。
エゴは自分を守ってくれる存在でもあるので、消し去ろうとすることはできません。
そんなことしようと思ったら、エゴちゃんが大騒ぎをして大変な事になります。
エゴは、インナーチャイルドと表現されることもあります。
このお話も、次回以降させていただきますね。
寛子の愛読書:
「愛とは、怖れを手ばなすこと」(ジェラルド・G・ジャンポルスキー著)
「傷つくならば、それは愛ではない」(チャック・スペザーノ著)

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