AQUA MIXT 潤治です。
先日のブログの内容に大きな反響をいただき、ありがたく思います。
→「今を大切に生きる オラクルカードセラピスト養成講座」
人の心の触れることが多い僕たちが気を付けていることを書かせていただきました。
・人の怖れをありのまま見ること
・その怖れは自分の中にある投影であることを認めること
・未来へのヴィジョンを共有するとともに今の祝福を受け取ること
・希望という「希な望み」を未来の「予定」に変える勇気や楽しさを味わうこと
などが、セラピストと呼ばれるようになって感じていることです。
「このようなことはしない僕たちでありたい」という別の言い方をすると、
・人の怖れをその人だけの責任にすること
・自分の投影を棚上げすること
・未来のヴィジョンで人を駆り立てること
・希望や期待で相手の「今の痛み」を紛らわすためにモルヒネを注入すること
と言えるでしょうか。
セラピストとして何かしらの成長は、こうした人生への姿勢のおかげで遅れてやってきます。
すぐにその成長を見てとれるような「お誘い」も多いですが、そこに美しさを感じません。
先日のブログでは、
→「今を大切に生きる オラクルカードセラピスト養成講座」
期限を設けて相手にコミットメントを引き出すような手法やその危険性にも触れました。
「戒律」ではなく、「自分が心地良くいるために必要なもの」ですね。
さて、話は変わりますが、「コミットメント」とは「約束」とも言えます。
「約束」という言葉の響きに何を思いますか?
約束は他人とするといつの間にか「要求」になることが多々あると僕は思います。
「要求」を「する側」「される側」という感覚を抱えていると
人が本来持つ「誠実さ」「素直さ」「情熱」が隠れてしまうように感じています。
関係性が変わってしまう怖れがあるということですね。
相手とした約束は、交わされた時に感じた相手の気持ちだけで完結しています。
実際にその約束が守られるかを気にしているのは「要求」です。
約束はするものではなく、その時の相手の気持ちを感じることと言えるでしょうか。
相手が守ろうとした気持ちそのものが「約束」という意味です。
「約束」=「要求」とするか、
「約束」=「思いの表現方法」とするか、
で人生に対する姿勢が変わるでしょう。
僕が20代の頃にスーパーマーケットの青果部で働いていた頃のことです。
スーパーのレジスター部門の女子社員の中には、
女子社員をひやかしに行くという名目で先輩や後輩とキャバクラに騒ぎに行くことがありました。