自分らしく生きるのはわがままかしら(4)報酬の遅れに対する耐性

潤治の徒然草
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AQUAMIXT 潤治です。

「自分らしく生きることはわがままかしら」シリーズ
第4回です。

前回も書かせていただきましたが、

僕は遅れてくる豊かさを信頼できなかったのでした。
パートナーである寛子が自分らしいと感じられる選択は僕が僕らしく生きることへの恩恵にもなるのだということを、ですね。

僕のおかげではないところで、パートナーが自分らしく生きていることは、

傲慢な僕には許せなかったとも言えます。
どんだけ傲慢なんだと内省します。

奥さんが自由にしている横で、

ツッコミを入れる
不平を言う
我慢している自分の正当性を振りかざす
などのご主人は少なくないと思います。

さてさて、話を戻しますが、

遅れてくる豊かさを僕は、にわかに信じることができなかったわけです。

僕が感じることは…

僕自身、報酬や見返りをすぐさま受け取れないことがストレスで、
予測できない豊かさを信頼できなかったわけです。

つまり、僕は自分のしたことや投げかけ、労働や気遣いなどに、

すぐに見返りを期待しているのです。

要するに、期待という名の要求ですね。

すぐさま支払いがなされないと不安というわけです。

寛子が自分らしく生きるために選択することを長い目で見られなかったのでした。

自分らしく生きる時、この報酬の遅れはついて回る問題と僕自身は思っています。
報酬という概念から解き放たれることもその先にあるテーマですが…。

さて、これは僕自身、パブロフの犬のように

仕込まれてきたことと感じます。

20代だった僕は社会人になり…

労働の見返りは、少なくても次月にお給料として振り込まれていました。

働いて、お給料日を待つ。
金欠になり、またお給料日を待つ。
支払いが気になり、お給料日を待つ。
仕事への我慢が募り、ボーナス月が過ぎたら、退職しようと思う。
お給料日は仕事の我慢料が手に入る日と思って、当日はハメを外してお酒を飲む。
お給料日くらい、パーッとやろうとはしゃぐ、しばらくするとお給料日が待ち遠しくなる。
お給料は会社から払われる慰謝料なのでは?と思う。
もっともらっていいんじゃない?と現状に甘んじながら主張したくなる。
お給料日の明細で手当てが付いていないと文句を言う。
お給料の計算が間違っているとクレームをつける。

「お給料日」に条件付けされた僕。

短いスパンで報酬が得られないなんて僕は耐えられないでした。
下手したら、日払いでないと僕の心は満足しなかったかもしれません。

こうして、僕は「報酬の遅れ」に対しての耐性が無くなるように

ある意味、社会システムに調教されたのかもしれません。

僕、調教済みです。

寛子が軽くなる選択をしたら、

パートナーの僕がそのあおりを喰い、損をするという
とても短いスパンで人生を見ている僕が露呈されたわけですね。
僕、調教済みです。
「ほらぁ~、報酬を遅らせてやるよぉ~。
どうだい?堪えられるかい?
すぐに欲しがるあんたには、堪えられないだろう?
もうちょっとじらしてみるかい?」
損得という短絡的な人生への姿勢
僕たちの可能性を狭めると僕は感じています。

予測を超えた事象が、僕たちの予期しないタイミングでやってきます。

そのことを信頼できれば、
損得という僕たちの霊性を下げる罠にハマらずに済むように思います。

では、何を指針にするのか?

僕の感じているひとつの答えは、

「家族の調和」
「したいことを我慢せずにし合えるパートナーシップ」

です。

「報酬の遅れ」という感覚も、僕の見ている幻だと感じます。

そういう意味も込めて

「その選択は軽い?重い?」

(短いスパンでしか判断できない思考だったなら…)
自問することは大切だろうと思います。

自分らしく生きることは…、

残念ながら…w
やはり、その個人が世界にできる最大の貢献だと言えそうです。

僕にとって自分らしく生きようとする時、

僕の魂が望むもの…

「家族の調和」
「したいことを我慢せずにし合えるパートナーシップ」

が実現されているのですから。

自分らしく生きる時の対極にあるテーマを学び、
実践することはとても大切です。
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