僕のおかげではないところで、パートナーが自分らしく生きていることは、
どんだけ傲慢なんだと内省します。
奥さんが自由にしている横で、
さてさて、話を戻しますが、
遅れてくる豊かさを僕は、にわかに信じることができなかったわけです。
僕が感じることは…
つまり、僕は自分のしたことや投げかけ、労働や気遣いなどに、
要するに、期待という名の要求ですね。
すぐさま支払いがなされないと不安というわけです。
寛子が自分らしく生きるために選択することを長い目で見られなかったのでした。
自分らしく生きる時、この報酬の遅れはついて回る問題と僕自身は思っています。
報酬という概念から解き放たれることもその先にあるテーマですが…。
さて、これは僕自身、パブロフの犬のように
20代だった僕は社会人になり…
働いて、お給料日を待つ。
金欠になり、またお給料日を待つ。
支払いが気になり、お給料日を待つ。
仕事への我慢が募り、ボーナス月が過ぎたら、退職しようと思う。
お給料日は仕事の我慢料が手に入る日と思って、当日はハメを外してお酒を飲む。
お給料日くらい、パーッとやろうとはしゃぐ、しばらくするとお給料日が待ち遠しくなる。
お給料は会社から払われる慰謝料なのでは?と思う。
もっともらっていいんじゃない?と現状に甘んじながら主張したくなる。
お給料日の明細で手当てが付いていないと文句を言う。
お給料の計算が間違っているとクレームをつける。
「お給料日」に条件付けされた僕。
短いスパンで報酬が得られないなんて僕は耐えられないでした。
下手したら、日払いでないと僕の心は満足しなかったかもしれません。
こうして、僕は「報酬の遅れ」に対しての耐性が無くなるように
僕、調教済みです。
寛子が軽くなる選択をしたら、
予測を超えた事象が、僕たちの予期しないタイミングでやってきます。
では、何を指針にするのか?
僕の感じているひとつの答えは、
「家族の調和」
「したいことを我慢せずにし合えるパートナーシップ」
です。
「報酬の遅れ」という感覚も、僕の見ている幻だと感じます。
そういう意味も込めて
「その選択は軽い?重い?」と
自分らしく生きることは…、
僕にとって自分らしく生きようとする時、
「家族の調和」
「したいことを我慢せずにし合えるパートナーシップ」
が実現されているのですから。