要求していることに気づかされる子育て

先日まで、娘の小葉はとびひ(感染性膿痂疹)にかかり、一週間以上、幼児園を休んでいました。

今なお、その傷痕が残り、その過酷な期間を思います。

とびひがすべて枯れ、回復期に入ると彼女に登園するかどうかの意思確認をするようになりました。

朝、起きて

「今日は、登園する?」と娘に訊くと「行かない。」と答えが返ってきました。

登園することのメリットを伝えても、「行かない。」という返事にこれ以上、どうすることもできないと僕自身は思うわけです。

「登校拒否」「不登校」という言葉がありますが、我が家ではやんわりとした「登園拒否」「不登園」という事態を迎えました。

しかしながら、これらの言葉は、学校へ行くことを基準にした言葉であり、行く自由と行かない自由のバランスを欠いた言葉だと僕自身は思います。

「登校承諾」「登校受諾」「登校容認」「登校賛成」などの言葉にすれば、バランス感覚のいい言葉になるのでは?とかひとりでクスクスしています。

または、「登校権利」などもいいかもしれません。

登校拒否という言葉は何のために、誰のために?

そもそも憲法で保障されているのは、教育を受ける権利であり、それが義務教育という言葉にすり替えられているように感じます。

その影響なのか、いずれにせよ、子どもに要求している言葉を使いがちだなぁと省みて思います。

自分たちが社会に参加するという義務を果たしているから、あなたもそうしなさいという論理かもしれません。

または、登園・登校してもらわないと親の僕が困るという社会的なシステムに起因した理由も正直なところあります。

会社を休まなければならない・仕事が滞ってしまう・ひとりでやりたいことがあるのにできなくなる、など。

そんなシンプルな理由をあたかも「あなたのことを思って、言っているの!」という言葉にすり替えてしまう心も僕の中で湧き起こります。

期待や愛もそうした要求の亜種と言えるかもしれません…

登園するかしないか…

権利を行使するかどうかは、その人次第なわけで、そこに介入することの無意味さのようなものを自由意志を発揮し始めた娘に思うのです。

「こどもをひとりの人間として扱う」なんていう言葉自体が、要約されてしまった嘘くさい言葉であり、その実体は日々の地味で葛藤に溢れた何気ない選択の連続だと僕自身は感じます。

自分で決める、自分の意志を持つことの大切さは大人になってから、気づきましたが、早くからそれを発揮しようとする娘を羨ましく思っている僕もいるわけです。

 

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