あるひとつの競争の勝敗においてわたしの価値は変わらない

スターシード子育て

運動会シーズンに勝敗はつきもの

近所の中学校からは、ブラスバンド部の練習が聞こえてきたり、生徒たちがリレーの練習をしていたりするのを目にします。

バディースポーツ幼児園に通う娘の小葉も、運動会に向けて猛練習をしています。
朝、彼女を園まで送って「朝体操」という始業の前のグラウンド走を外からネット越しに見ていると、リレーの練習や股上げ走などもしていました。この歳でそれをするのか?といつも驚きです。

そして、厳しさが増す年中(ミドル)さんのこの時期…

娘はあきらかに朝体操の時間を嫌がり、朝は何かとぐずぐずとして遅延策を講じていました。

彼女が入っている「体操クラブ」なども見学をしていると、あきらかに「できる子」「できない子」の差があります。
その差も歴然で、勝ち負けや出来る出来ないという目を背けられない現実が彼女の前に立ちはだかります。

しかしながら、彼女は次第に朝の遅延策を講じなくなりました。

勝ち負けや出来る出来ないという現実

きっと、彼女なりにその現実を消化したのでしょうか。

友だちとの差も、あるひとつのものの見方でしかないわけですし、昨日の自分よりも今日の自分は成長しただろうか?という視点を持って、運動会に取り組んでいるようです。

昨日の自分よりも、今日の自分は成長したかどうかに目を向ける

健氣にグラウンドを走る彼女を見て思うのが、

「この園に入れてよかったのだろうか?」

という親の疑問や不安です。

入園して3年目で、「今なおか!?」と自分でツッコミを入れてしまいます。

それでも、早い時期に大人のように投影や誤魔化しのきかない状態で勝ち負けを受け入れられることを良しと思いつつ、しかしながら、五里霧中状態です。不安です。

しかし、それは、僕の心配であり、彼女に投影した「不安」「怖れ」です。

娘に投影した「過去の心の痛み」を親は見つけられるかどうか

スターシードは親に「自分を癒す機会」を氣付かせてくれる

親に考える機会を作るために、スターシードは生まれてきます。

その考える機会は、親にとっては「自分を癒す機会」でもありますね。
それを抑え込もうとすると、彼ら(彼女ら)は激しく反発、自己主張することでしょう。

親としては子どもに「なんで?」を思うよりも「どうしたら?」と問いかける必要があります。つまり、原因追及や減点法、可能性を狭めるよりも、可能性を広げる、加点法の視点を持つということでしょうか。

なんで、あなたはやらないの?
なんで、こんなことしちゃったの?

というよりも、

彼女の生きる力を信頼できる強さのために僕はどうすればいい?
彼女を勇氣づけるために、僕はどうしたらいい?
心配することは、彼女のため?それとも自分のため?
悩むことよりも、彼女のためになることは何?何を選択する?

などなど。

子どもたちは、親が隠しているところを開示する勇氣をくれる

園に娘を迎えに行くと、多くの子どもたちに囲まれます。
そんな中で、できない自分と出合いながらも笑顔でいる子どもたちにいつも勇氣づけられます。
それでも自分は素晴らしいとでも思っているかのよう…。

単なるひとつの競争ごときに自分の価値は変わらないという芯の強さを娘に感じてしまうわけですね。

自分が自分をあきらめてしまったら、誰が自分を立て直すのか?

でも、徹底的に「正誤・勝ち負け・良い悪い」などの感覚をすり込まれた(教育された)「調教済み」の僕は、その勇氣を持てずにいました。

「正誤・勝ち負け・善悪」などの感覚は本当に自分のためなのか疑ってみる

2度目の結婚、AQUAMIXTでの多くの出逢い、娘との出逢いによって、少しずつ勇氣や自分の価値を取り戻しているような気がしています。

隠している自分を開示する勇氣をもらってもいます。
隠している自分が少なくなればなるほど、自分が強く優しくなっていくことを思います。

それは子どもたちの一生懸命な姿にいっそう勇氣づけられるのです。

ああ、運動会当日、きっと娘の姿を見て、泣いちゃうな…。(泣きました)バディ

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