あなたのせいでわたしはこうなりました…復讐劇は蜜の味

昔、僕のお世話になったメンターの女性に教えられたことで、「受動的な言葉に氣を付ける」というものがあります。

受動的な言葉を使う場合、その時すでに被害者意識や責任転嫁欲求が芽生えるからです。
そして、それは自分自身のパワーを過小評価し、制限を設けます。

例えば、「~と言われた」「~された」という言葉です。
誤解された、怒られた、泣かれた、言わされた、やらされた…などでしょうか。

その言葉を使う時、被害者意識や責任転嫁欲求はむくむくと頭をもたげてきます。

自分の創造的な力や忍耐力、可能性や信頼する力を激減させていくと僕自身は思います。

自分で人生を変える力を失わせる言葉とも言えるでしょうか。

受動的な言葉は受動的な意識になり、自ら人生を変えなくなっていくわけです。
メンターの女性が僕に繰り返し繰り返し言っていました。

受動的な言葉に支配された思考でも、人生をコントロールしようとします。
変えようとする対象が自分ではなく、周りの人たち(世間)になります。

どのように変えようと思うのか?

それは「被害者」で居続けることです(受動的な攻撃と呼んでいます。)。

「あなたのせいでわたしはこうなりました。」と密かに思い続けて、その自分を演出するとも言えるでしょうか。

僕が離婚をしたとき、父にその報告をしました。
その時の氣持ちは、「父さん、母さん、あなたたちが離婚したように僕も離婚しました。あなたたちの子どもですから、当然ですよね。幸せになれるわけがありません。」といった感じです。

不幸な息子にしてくれたのは、父さん、母さん、あなたたちなんだ!と責め続けたいがために僕は復讐する人生を選び続けていたわけです。

このように重い復讐劇でなくても、被疑者意識からの復讐は日常茶飯事です(僕だけ?)。

「ほら、やっぱり目覚ましかけておけばよかったじゃん。遅刻しちゃうよ!」
「バッサリと髪の毛切ったんだぁ~。え、なんかスッキリしたくって。」
「うん、もう内定もらっているし、夢とか言ってないでそこに就職するよ。」
「家のローンあるし、海外旅行とか諦めているよ。」
「傘、いいよ…。濡れて帰るから。ほっといて。」
「昔と変わらないね。あなた、幸せそう…。わたし?慎ましくママやってるわ。」
「バスケ部、ぶっ潰す!(「スラムダンク」三井寿)」

などなど、被害者意識から、他人や世間に復讐したいと思うことがあるかもしれません。

「あなた(世間)のせいでわたしはこうなりました。」ということでしょうか。

被害者意識は、誰もが持つもので中毒性があります。
そして、「復讐」という感情ゲームを誘発します。

人生のすべて(光と闇)を引き受けることは荷が重いと感じ、責任転嫁やお門違いな復讐劇の主人公になりがちです(僕だけ?)。

僕はたまに自分の被疑者意識が出てくると、
僕は何に、誰に、復讐して、自分をおとしめたいのだろう?と自問します。

感情の闇として位置づけているようなところにいつも問いを持ちます。
そして、感情を深めていくと、可能性や創造的な自分に僕の場合は出逢えます。

責任転嫁欲求や復讐劇に乗っかろうとする自分を過度に抑え込む必要もなく、それを否定ししたり、抑え込まないことです。

他人や世間に復讐せずに、自分を認められるなら、それは自分の力を取り戻すことになるでしょう。

人生はいつでも自分で変えることができるとしたら、都合が悪いでしょうか?

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