日常のとあるシーンのアサーティブネス(6)自分を偽らないが暴力になる

ライトワーカー
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
ただ手を差し出すだけ
AQUA MIXT 潤治です。
「アサーティブネス」という言葉が一般的になるにはまだまだ時間がかかるかもしれませんが、その姿勢は僕の人生にとってとても必要なものだと思います。
昨年は「JMAフェスティバル~セルフフォース(自己力)に出会う夏2014~」において、「あなたのためのアサーティブネス(自己主張)」というテーマで夫婦で講演させていただきました。

初開催となる、JMA・ココリラ出版主催の癒しの総合イベントで講演する機会をいただき、本当にありがたい機会でした。

それ以降、アサーティブネスに関するご相談やご質問も増え、

テーマとなった「アサーティブネス」、
僕たちなりに提議しているものは、
自分に正直になることで、自分を大切にする、
そしてそれが他人を大切にすることになる
ということでです。

自分を大切に、正直に…という言葉だけだと恰好が良いですが、

それはとても日常で試される「人生への姿勢」でもあります。

自分を偽らないということでもあります。
しかし、それは時に暴力にもなります。

本当、些細な日常のあらゆるシーンにその姿勢は試されます。

スマートフォンが携帯の有り様を変えてしまったように感じています。
歩きながら、食事しながら、トイレでも…、
スマホをいじって何やら自分の世界に入り込んでいる人が少なくありません。
常日頃、僕はモヤモヤしていたんでしょうね。
この気持ちには、僕の「裁きたい」「正当性を振りかざしたい」
というものが多分に含まれています。
ある日、家族で夕食をいただいている時のこと。
食事中に寛子がスマホをいじり出しました。
娘の小葉も気にして、ママの関心を得ようとします。
その光景を見て、僕は、
「寛子、携帯は食事中はいじらないで欲しい。」と彼女に伝えました。
そして、矢継ぎ早に、
「食事中に携帯をいじるなんて、マナー違反だよ!
小葉も寂しがっているじゃないか!真似するようになったらどうするの?」
と親としてのお手本になるように指導する僕という図式に酔いしれました。
正当性を振りかざし、ここぞとばかりに寛子に注意を促したのでした。
しかし、正当な言葉は、本当の気持ちを見失うことがあります。
僕はアサーティブネスを実践したと思いました。
「母さん、俺、アサーティブネスになったよ!」
「アサーティブネスに、俺は、なる!」
感じていることを口に出す、モヤモヤとしたものを相手に伝える、
という自分に嘘偽りの無い姿勢を貫いたと感じていました。
晴れやかな気持ちは一瞬で、その後、モヤモヤした気持ちが湧き起こってきました。
「あれ、アサーティブな姿勢を貫いたのにも関わらず、
この胃がもたれたような感覚は何だろう?」
自分に正直になることで、自分を大切にする、
そしてそれが他人を大切にすることになる
というアサーティブネスとはほど遠いように思えてきました。
嘘偽りの無い気持ちを吐露することとアサーティブネスは違うわけですね。
自分も他人も大切にしていない
僕の正当性を振りかざす感情の吐露、暴力
ただ、それだけでした。
食後、すぐに寛子に言いました。
「さっきはごめんなさい。僕が本当に言いたかったのは、
食事中に携帯をいじられると、
無視されているようで寂しいということなの。」
「僕の存在をないがしろにしているようで悲しいということなの。」
「わたしこそ、ゴメンね。ないがしろにしてしまったわけではないの。
潤ちゃんのスケジュールにも関係することを急ぎでやりとりしていたの。」
結局、相手を思ってのすれ違いをお互いに理解し合うことになりました。
もう少しで、正当性を振りかざし、お互いの気持ちにお互いが寄り添えないところでした。
愛されていることに不安になり、僕はパニクっていただけでした。
それを確かで、正当な理由が欲しいがために、一般的な正当性を振りかざしていたわけです。
時にそれは相手への暴力になります。
僕は、偽アサーティブネスを実践してしまっていました。
本当に伝えたいのは、僕を愛して欲しいというメッセージです。
それをわからずに愛に彷徨するなんて悲しい偽アサーティブネスです。
今日も偽アサーティブネスは僕をミスリードしそうになるのでした…。
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