恥ずかしいと日常で感じることが、あなたにはありますか?
人によってその「恥ずかしい」というツボは違います。
- ズボンのチャックが空いている
- トイレの後なのか、スカートがまくり上がっている
- 顔にご飯がついているのを指摘される
- 多くの人の前で歌う、プレゼンする
- 好きな人に好きと伝える
- 怖い、不安だという気持ちを家族に伝える
- 嫌いな人にお願いしますと頼む
- 他人と喧嘩になりそうな時、一旦、自分が悪者になって謝る
などなど、いろいろな恥ずかしいシーンは日常で出くわすことがあります。
もちろん、それを避けて通ることもできます。
恥ずかしいと感じない道を選べるということですね。
嫌だと思っていても他人の価値観に迎合することもできます。
怖い・不安だという気持ちを自分だけで処理して他人に言わずとも生きていけます。
他人にお願いするくらいなら、自分でやってしまったほうが早い、楽だと思ってしまうこともあるかもしれません。
他人の理不尽な仕打ちに怒りを露わにするか、陰口を言うか、逃げるか、とにかく、こちらから謝る筋合いはないと突っぱねることもできます。
恥ずかしいことだらけの中学生時代
中学生の頃の僕には、恥ずかしいことが毎日、たくさんありました。
悩んでいたら、友人に「話せよぉ〜!」と無理矢理、家族の不和、意中の女子、進学の不安など聞き出されました。
しつこく聞いてくる友人を疎ましいと思いながらも、恥ずかしさを乗り越え、悩みや不安を分かち合い、正直な自分でいられました。
ズボンのチャックが開いていれば、笑いながら指摘してきて、弁当の中身を嘲笑い、好きな女子の相談をすれば、クラス中にバラし、その子のジャージをいつのまにか着て僕の目の前に現れるといういたずら…。
僕はそのバカで正直な友人に翻弄されました。
ムカつきながらも、その友人といるといつのまにか恥ずかしいという感覚は少なくなり、いろいろな自分の感情を素直に感じるようになりました。
悔しい、怖い、恥ずかしい、嫌だ、この野郎!などの気持ちです。
その友人は
「どんなおまえとも一緒にいたいんだ。楽しもうよ。」
と言ってくれていたのかもしれないと随分と大人になってから思いました。
「格好つけるなよ、格好つけて何になるんだ?」
今でも、その友人の声なのか、何か守護する存在からの声か、耳にすることがあります。
きっと、格好をつけたがる僕への戒めなのでしょう。
可能性を狭めるな、ということかもしれません。
恥ずかしいという感情は何かを隠しているエネルギーです。
その奥にある気持ちに気づけると、自己受容が進むことがあります。
恥ずかしい状況を進んで作る必要はないかもしれません。
しかし、その時に…
- 正当化して誤魔化す
- 無効にする
- 責任転嫁する
などの、自分を欺くようなことはしないように心がけています。
それが結局は、深い自己受容につながり、他人に優しくなれることを感じています。
恥ずかしいは、とても貴重なプロセスの始まり、ということですね。