このところ、パートナーシップについて考える機会が続きます。
ふたりでAQUAMIXTを運営し、同じ仕事をし、子育ても協力し合いながら、同じ悩みや葛藤を共有し、慰め合い、癒し合う中で、あらたなテーマが湧き起こりました。
それは、寛子のファン活動です。
若手の俳優、イケメンのエンターテイメントユニットのリーダーである彼に思いを寄せています。
楽しそうに彼のことを語り、彼の応援をして、彼のことで悩み、彼のことで喜び…
そうしたファン活動を通じての彼女の喜びは家族や仕事に良い影響を与えます。
喜びにお金はついてくるというのも真実であろうと思います。
喜びの波動がお金を引寄せるわけですね。
ライブ帰りの嬉しそうな顔、中二女子か!?と思わせるキャピキャピ感…
時に僕にとってそれは眩しく、器の小ちゃい自分を省みる機会ともなります。
良い恋愛関係を創る要素
アクセスコンシャスネスの講座のひとつに、「いい恋愛関係を創る要素」というものが出てきます。
「あなたがやりたいことをやりたい時にやらせてくれて、
あなたも相手がやりたいことをやりたい時にさせてあげる」
というもの。
成熟したパートナーシップだと僕自身は思います。
そこに「我慢」「遠慮」「犠牲」「正当化」「盲目」などがなく…。
好きな人が好きなように生きている姿は、自分にとっても素晴らしい恩恵です。
しかし、自分の中に自分を許さない心、自分を認めていないところなどがあるとそれは相手に投影されることがしばしばあります。
つまり、僕が我慢しているんだから君も楽しまずに我慢してよ!ということですね。
「親として、その行動はどうかと思うよ。僕はしっかりとパパをしている。夜に外出するなんて娘はどう思う?彼女の心の成長を思ったら、それは母親として正しい行動かい?」
あたかも正論のように見せながら、僕の中にある「自分を許していない氣持ち」を彼女の喜ぶ姿に投影させて、許すまじきものとして攻撃することも選択できます。きっとお互いに傷つくでしょうけどね。
相手を傷つけた自分を認められずに「正当性の中で漂流」することもあるでしょうか。
そのことを認めずに生きることもできます…。
自分が正しいなんてことをいったん傍らに置き、正直な自分を分かち合うことがパートナーシップを成熟させていくでしょうか。
自分も相手も解放する道を選ぶことはできる
山本周五郎の言葉で、このタイミングで思い出したものがあります。
「許すということは難しいが、もし、許すとなったら限度はない。
―ここまで許すが、ここから先は許せないということがあれば、それは、はじめから許してはいないのだ。」
自分自身を許すこと、相手を許すことに際限はないと思うとさまざまな感情が湧き起こりました。
しかし、その選択の向こう側に「心の軽さ」を感じてしまう以上、それは僕の魂が望むことなのだろうと思います。
相手によってあぶり出される「許さないという心」はあらためて「自分を際限なく許せているか?」ということにぶち当たるわけで。
自分の人生を歩むという、終わりなき道の楽しさを思います。
あなたにとって「許す」ということはどのような意味を持つでしょうか?