- 自分が幸せになると誰かを不幸にする
- 自分が自分らしく生きると誰かに迷惑をかける
- 自分の人生を歩むと他人からの攻撃があるように思える
- 我慢している人たちを差し置いて前に進むことを遠慮する
自分らしく生きる時に必ず対峙する問題だと僕自身は思います。
自分らしく生きようとした時、
必ずしもバラ色の人生が保証されているわけではないと僕は感じます。
「自分らしく生きるって素敵ィィィ!」
だけじゃないということですね。
自分の意思で決定し、責任を負い、自由を感じる素晴らしさはありますが、
それとともに、後ろめたさ、抜けがけしているしているような罪悪感、
周りの人たちからのプレッシャーは少なからずあるように
多くのカウンセリング、自分自身の経験を経て思います。
自由に、そして、自分の好きなように生きることで
そこそこの我慢した人生のほうがよほど楽に思う人もいます。
まるで「逆差別」のような状態を怖れて、
自由を背にして自ら牢獄に入ってしまうようなものでしょうか。
その牢獄に入った人…、優しい人ですね。
自分のせいで誰かに迷惑をかけたくないと思っているのかもしれません。
自分らしく生きることはわがままなことで、
他人に多大なる迷惑をかけてしまうという価値観を
誰かから継いでいるのでしょうか。
我が家で起こっていた
「自分らしく生きることで身内がその煽りを食らう問題」
は完全な決着をつけました。
「その選択は軽い?重い?」
「あなたが軽ければ、その分、僕が重いんだよ!」
と僕は駄々をこねていました。触るものみな傷つけました。
しかし、僕にとって寛子が好きなことを学んだり、
それを多くの人と共有していく機会をサポートすることが、
本当に僕にとって「重い」ことなんだろうかと問うてみました。
- 一時的な不快感
- 迷惑を被る意識
- なんで僕だけという被害者意識
- 寛子だけずるい!という嫉妬…
などは、僕が短いスパン(期間)で人生を観ているせいで現れる感情でした。
魂の学びは今世だけのものではないと常日頃感じていることです。
来世にまたがる学びもあるだろうし、そこまで長いスパン(期間)ではないけど、
時間のかかる学びや結実もあるわけです。
寛子と共に問う、
「その選択は軽い?重い?」という言葉は、
人生を大局的に見ての選択を促すものでした。
現に、寛子が自分らしく生きようとすることで
僕が請け負ったことは、今では報われています。
娘、小葉との関係も一段と強くなったし、
寛子のママとしてのご苦労もより理解できるようになりました。
僕自身が情けない自分を寛子と共有する機会もあり、
素直になることの学びも多かったです。
新しい豊かさの流れは揺るぎないものになり、
それに付随してできることも増えました。
寄稿している執筆のテーマも広がり、
人間的にほんの少し成熟したように思います。
それら、僕にもたらされた多くの豊かさを、
はじめから感じることができれば、寛子の言う通り、
僕にとっても寛子が自分らしい生きることは「軽い選択」だったでしょうに…。
遅れてくる豊かさを
誰かが自分らしく生きようとする時、
周りの人がその影響をどのように受け取るかどうかは、
その人の人生をどう生きたいと思っているかに委ねられます。
そのスパン(期間)は短いのか長いのか、今世か来世か…。
そこまで他人の感情や行く末を察して、
僕たち自身が自分らしく生きることに罪悪感を持ち続けているほど、
僕たちの人生は長くないし、
ちょっと傲慢で、「上からジュンジ(潤治)」ね。
続く