映画「母さんがどんなに僕を嫌いでも」人生は変えられる

潤治の徒然草虐待

先日、「母さんがどんなに僕を嫌いでも」という映画を観てきました。
太賀さんが息子役、吉田羊さんが母親役でした。

虐待を乗り越えて、自分の人生に立ち向かう主人公の物語。

「タオルを持って、ご鑑賞くさい。」
「もう、号泣…。今、思いしても泣けてくる。」
「吉田羊の演技、神ってない?」

などなど、前評判にビビりつつ、映画に挑みました。

気合いを入れていないと、涙腺のコントローラーが決壊してしまいそうな内容で、自分と重なる部分もあり、映画が終わってからもしばらく頭がフラフラしてしまい、今も思いして、涙が出そうです。

子役の演技がヤバい…。泣いてまうやろー!

主人公の「僕」は、母親からの虐待、いじめなどの影響により、自分は「ブタ」であるというレッテルを貼ってしまいます。

本意ではないながら、環境に屈してしまいそうになるわけです。

しかしながら、

・運命は自分で変えられる
・運命を変える勇氣はもらえる
・その機会を受け取るかどうかは自分次第

という、ひとつのテーマがありました。
主人公の「僕」はそれを実践していくわけです。

他にも、

「愛し方の違い」
「無防備になることの強さ」
「運命に立ち向かわない人間の弱さ」
「自分が創り出した世間」
「自己評価の大切さ」
「虐待を受けた場合の脳萎縮」
「ストックホルム症候群」

なども、僕の中で注目したテーマです。

ワクワクすることを探す、なんていう段階ではない、のっぴきならない状況で、運命と対峙する機会は、人生に幾度もやってくるように思います。それはしばしば両親との関係、兄弟姉妹との関係などに現れます。そういった機会に向き合うのはひどくしんどい気がします。

しかしながら、

向き合う、立ち向かうことをおろそかにして放っておきながら、人生の躍動感、ワクワクは感じられないように僕自身は思います。

自分の人生のテーマに向き合えば向き合うほど、人生の躍動感は増え、ワクワクすること、感謝すること、応援したいものも増えていくとようです。

何かを抑えつつ、隠しつつでは、喜怒哀楽もセーブしてしまうという感じでしょうか。

号泣することを恥ずかしがり、気合いを入れつつ、泣かないようにしていた僕が言うのもおこがましいのですが、たくさん笑って、たくさん泣いて、怒って、憎しんで、失望して、また笑えるように人生を歩んでいきたいなとあらためて映画館を出た時は思いました。

しばらくすると緩やかな日常に、その思いもかき消されていきますが、何か姿勢のようなものは、日頃から持ち続けたいものです。

自分を知り、自分が人生を変える力があることを認めることの大切さ、が僕にささったテーマでした。

タイトルとURLをコピーしました