小葉(このは)が生まれてくる前のこと、僕たち夫婦はよく旅行に出かけました。
寛子は旅行をフリープランで設計することが好きです。選択肢の多い旅を好むのでしょう。
僕は完全な誰かに設計されたツアー旅行が安心で心地良いです。
僕は旅行でも「安心」を、寛子は「自由」を求めます。
「安心」とは感情的な概念、価値です。
「自由」とは精神的な理想、価値です。
感情的なものを追い求める僕は感情的な概念「恐怖心」を指針にさまざまなことを決定しがちです。
「こうしといたほうがいい、こうなっちゃったら嫌だから…。」
精神的なものを追い求める寛子は精神的な価値「信頼」から物事を観ています。
「こうなるといいなぁ、こうなると楽しいなぁ。こんなことが起こるかも?」
そのふたりの価値観の違いが旅行ではしばしば浮き彫りになり、トラブルを引き起こします。
成田離婚などという言葉があるのは、普段は隠し通せるお互いの価値観と対峙することになるからかもしれません。
海外に行くと日本の常識は非常識であり、疎外感と意思の疎通ができないいらだちが生まれてきます。(僕だけですね…。)
特に「違いを受容」できないとそのいらだちは「攻撃されている」「責められている」「無視されている」「不当な扱いを受けている」という被害者意識と相まって、普段は格好つけて、隠している恐怖心が露わになってしまうかもしれません。(僕だけですよ、どうせ。)
僕の場合、この臨界点は非常に身近にあり、海外旅行では「怯えたキツネリス」のように凶暴になります。
そのキツネリスの僕がイタリアに行く際の飛行機内で嚙みつきポイントを見つけます。
機内食を出すイタリアのCAの態度に反応するわけです。
「愛想悪くない?コップの渡し方もガサツだわ!」
「お客というよりは、家畜に餌をばらまく感じに思える。」
これは激しく偏った僕のものの見方ですが、ストレスはこの時点で溜まっていきました。
イタリア人の人生への姿勢に触れて、この後、彼女たちの態度が理解できるのですが、この時点でお客さま気取りの僕は正当性を寛子に主張するのです。
「え、愛想笑いなんて、日本人だけよ。」
旅慣れた彼女の言葉にいっそう僕は疎外感を感じます。
「え、何?あなたもそっち側の人間ですか?」と心で思うのです。
疎外感は、いっそう僕を孤独にして依存心を空回りさせます。
「寛子が生きたいって言うからイタリアまでついてきたのに!そういう言い方はないんじゃない?」
と寛子に対してもお客さま気取りなわけです。
イタリアの旅は、人生がいかに安らぎと喜び、豊かさに満ち溢れているか教えてくれたのですが、
この時の僕は完全に人生をお客さま気取りでいたのでした。