恰好の悪いほうの「ありのまま」 封印か吐露か

理想のパートナー・運命の人
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
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AQUAMIXT 潤治です。
ありがたいことに、夫婦の在り方やパートナーシップについての寄稿や講演をさせていただくようになりました。
女性と健全な関係になれない自分を
「人類の劣等品種か?」
と疑っていたことも昨日のように思い出します。
パートナーシップの学びも一段落ついたなぁと思っていた矢先、寛子が妊娠しました。
アラフォー出産、育児が僕たちへの必要な学びだったのかもしれません。
ふたりで紡いでいたパートナーシップは娘の小葉がやって来たおかげで複雑に、
より学びや気づきが多くなったように思います。
正直なところ、気づきたくないものも多く、逃避したいところなのですが、
それだと家庭崩壊の危機に陥るので、
僕の人生に必要な学び、しいては祝福になるのだろうと信頼してみています。
投げやりな気持ちになることもありますが、
きっとこの学びは誰かと共有することになると思っています。
今までもそうであったように…。
こうして自分の人生を真剣に生きることが世界への貢献なのかもしれないと。
さて、小葉が生まれてから、夫婦共にお互いに対して厳しくなったように思います。

パパとして、ママとして、お互いにプレッシャーをかけてしまうこともしばしばあります。
結局は自分の「やりきれていない自分」への焦りや不安なのですが、
それをそのまま「慰めて欲しい」「許してくれる?」
相手と分かち合えないところに不幸があります。
ありのまま、と言いながら、恰好の悪いほうの「ありのまま」は封印か。
―読み人知らず(知っているのは潤治だけ!)
お互いに育ってきた環境が違うのですから、子どもとの接し方も考え方も違います。
そこに優劣は無いと言いたいところですが、「比較する心」がむくむくと各人に湧いてきます。
自分が妙なところにこだわっているところや、器の小ささを相手と比較することで自ら減点していきます。
その減点パパ状態になると子育ては葛藤の日々です。
あまりに葛藤し過ぎるので、矛先を変える必要がありました。
それはママである寛子に、です。
僕はママとしてこうしなくっちゃいけないんじゃないの?
という「裁きの目」を持ってしまっていました。
人を裁く時って、自分で自分を裁いていることに気づきたくない時なのかな
―みずを (日本のセラピスト兼主夫 菜食料理研究家)
寛子を裁けば裁くほど、僕自身が苦しくなるのはわかっていたのですが、
湧き起こる憤怒のような感情は収まらずにいました。
(どこから来る?憤怒?七つの大罪?)
小葉のこと考えたら、しないと思うよ。
小葉に寂しい思いをさせるのはどうかと思うよ。
小葉のこと考えたら、もっと自分の健康に真剣になるべきだよ。
ちょっとくらい、なんて緩んだ考え方、小葉が可哀想だよ。

などなど、自分のことを棚にあげて、

母親としての義務を僕の許可が下りるまで全うして、という無茶な要求です。
当の小葉はケロッとしていたり、気にしていなかったりするのですが…。

小葉がケロッとしているのに、僕が憤怒を抱えているなんて、
完全に僕の問題であり、その問題を単に周りに投影にして複雑にしているだけです。
それは僕の実母に対する思いでした。
「僕はね、お母さんにこうして欲しかったの。」
という成し遂げられなかった思いを、
小葉を使って、成し遂げようとしていたのでした。
ですので、先ほどの寛子への言葉を「小葉」から「潤治」に変換したわけです。
潤治のこと考えたら、しないと思うよ。
潤治に寂しい思いをさせるのはどうかと思うよ。
潤治のこと考えたら、もっと自分の健康に真剣になるべきだよ。
ちょっとくらい、なんて緩んだ考え方、潤治が可哀想だよ。
父親であろうとする自分の影のようにつきまとった「癒されていない母への思い」は、
寛子からするととんだとばっちりです。
残念ながら、父親であろうという仮面を被った水本家の長男という姿が僕でした。
パートナー、妻である寛子に僕の理想の母親像を演じさせようとする傲慢な男でした。
その共有を寛子としてから、風邪ウィルスが一気に我が家を襲ったのでした。
何かしらの浄化であることを祈っています。
20150228-100822-2
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