あまり足の早くなかった僕は彼女に憧れました。
その走る姿はカッコよくって、
運動会のリレーで男子をグイグイと抜いていく姿に魅力を感じました。
今、大人になって振り返って思っても神々しいという感じです。
学校の廊下ですれ違う時
給食当番が一緒になる時
授業で大きな声で発言する時
クラスの班が同じになる時
チラッと目が合う時
いろんなシーンでドキドキしました。
その子が登校してくるのをいつも楽しみにしていました。
人を好きになるってこんな感じなんだぁ…と思ったのでした。
しかし、それと同時に襲ってくる感情に驚きました。
僕は君のように速く走れない…
僕は君のように授業中、大きな声で発言できない…
僕は君のように心の底から楽しそうな笑顔ができない…
僕は君のようにリレーのアンカーにはなれない…
僕は君のように… 僕は…。
彼女の魅力を感じるとともに、
いつの間にか自分と彼女を比較して
できない自分、自分の卑しさ、カッコ悪さ、情けなさ…を感じるのです。
彼女を通して、自分という人間を観させられたのです。
はじめての片想いでした。
その後も片想いを経験します。
その都度、小学生の頃よりも巧妙に“できない自分”を見つけ出します。
彼女に僕はそぐわない
僕には君はもったいない
「甘いカレー」→甘いのか辛いのか?どっちだ?
そんなレッテルを自分自身に貼り付けます。
そのレッテルを傷つく自分に貼り付けることで、
本当に傷つくことから逃避するのです。
そぐわない自分なんだから、告白しても傷つくに決まっている。
または、君と歩み続けるとさらに自分を観ることになるから怖い。
そうして、自分を守り、勇気を出すことからも逃げ出します。
しかし、少し視点を変えると
こんな痛みを感じることができるのは僕たち人間が分断されているおかげです。
違う人間でなければ、その人と出逢わなかったかもしれません。
分断されている痛みを感じられることで
そして、それを見つめ続けることで人は成長していくのだと感じます。
相手を通して、自分が何者なのか、どんな人間でありたいかを知ります。
分断されている痛みと向き合い、
理解しあうところにパートナーシップの素晴らしさがあります。
逃げ出すことをやめたとき、
パートナーの寛子と出会いました。
パートナーに向き合うことで、自分の痛みを見つめて癒すことができたのでした。
(潤治 成熟の過程 記事「パートナーシップのために…」)
それは夫婦だけではなく、仕事仲間、恋人、友人…にも当てはまります。
人を好きになることで、もたらされる恩恵を感じます。
分断されていること、あなたは感じますか?