寛子です。
聖ヶ丘は今、一面の銀世界です。
昔の仲間が海外赴任先から一時帰国していることもあり、午後から出かける予定なのですが、思わず冬眠したくなります・・・。
寒くなると、一気にパフォーマンス低下。湯たんぽが手放せません。(愛用はドイツfashy社の湯たんぽ)
前回その1に続き、私たちのパートナーシップの黎明期をご紹介します。
AQUA MIXTの強みのひとつは「潤治&寛子のパートナーシップ」ですが、8年前の電撃入籍当時から今の形の夫婦のパートナーシップが存在したわけではありません。
愛とは、互いに見つめ合うことではなく、
共に同じ方向を見つめることである。
(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ)
上記の座右の銘を胸に、新婚当時は一緒に過ごすことがとても少なかったです。それでも
「生活のパートナーではなく、人生のパートナーだから!」
と自分たちを言い聞かせていました。
前回書いた天使の導きがあったのは2002年9月下旬。
お互いの未来のヴィジョンだけで、じゃあ入籍しようという話になり・・・お互いのスケジュールで最短で入籍(&一緒に暮らし始める)が出来るのは翌月10月10日、とトントン拍子で一緒に暮らし始めました。
周りに何を言われても、何の迷いもありませんでした。
当時は住むところの選択の余地もなく、潤治の義父との同居でした。
結婚の動機は「夢と理想」に満ちた未来のヴィジョンでしたが、現実は程遠いものでした。
潤治は整体のチェーン店で学びながら働き、しかし時給が低いために週3日はコンビニで夜勤。ギリギリの生活の中で起業のためのセミナーにも積極的に参加し、睡眠もろくに取らず休みなしの状態でした。
一方寛子は、9月末でそれまで働いていた外資系コンサルティング会社を辞めたばかり。
その1年前から、学生時代の友人2人と新しく人材育成ビジネスを始めようと立ち上げをしていたのですが、ちょうどそのうち1人も同じ時期に会社を辞め、フリーになった私と二人でずっと一緒に行動していました。
それもまだ、生活していけるだけの収入ではありませんでしたので、私はそれまでのIT業界の経験と知識、技術を教える道を1から開拓していくことになりました。
それまでのキャリアを捨てて自分自身で勝負したいと思いつつ、やっぱりそれまでのキャリアにすがっているようで、自分の中でジレンマもありました。
不本意ながら、潤治と一緒に居るよりも、そのビジネスパートナーと一緒に居る時間の方がずっとずっと長かったのでした。
たまに家で一緒に居られる夜などは、潤治と寛子は喧嘩ばかりしていた記憶が多いです。
今思えばお互い憑依体質でしたので、外で憑依されたまま別人格で喧嘩していることも多々ありました。(浄化することを知らないって、怖いですね~)
私は、入籍してから潤治に禁止されて抗鬱剤や睡眠薬を一切飲まなくなったのですが、不眠は続いていましたし、鬱のぶり返しなどがしばしばあり、そんな時は泣いたりわめいたりしていました。
お互いそれぞれに必死だった感情だけが、残っています。
住んでいた場所も氣の流れが非常に悪く、東武東上線の線路のすぐ近く、植物もすぐ枯れ水晶は割れ・・現在義父と姪が住んでいますが、今は出来るだけ近付きたくありません。
本当に、自分たちの夢に近付けるのだろうか・・・
二人で一緒になったって、全然飛べないじゃないか。むしろ足を引っ張られている・・・
そんな感情と、夢に導かれた感覚とのはざまで、いつも二人は葛藤していた時期でした。
(つづく)
2009年11月 高尾山より富士山を望む