一昨日から、娘の小葉は幼児園の行事である2泊3日のスキーキャンプに行っています。
親の立場からすると2泊3日も親元を離れるという状況に心がざわめきます。
「今頃、どうしているかな?ひとりで眠れるのかな?排泄は上手くしているだろうか?泣いていないかな?」
そのスキーキャンプはその幼児園の恒例で、全く滑ることが出来なかった子どもたちが泣きながらも滑れるようになるという「地獄絵図」だそうです。
リフトで上に登り、2、3時間かけて降りてくるわけですから、指導するほうもされるほうも根氣が要ります。指導してくれる先生たちには感謝しきれません。
そういった背景があるので、パパである心配は普段よりも増幅します…。
「スキー靴、キツくないかな?アンダーシャツが汗で濡れて気持ち悪くないかな?」
「宿の暖房は乾燥しているので、保湿は大丈夫かな?唇切れてないかな?」
心配は次から次へと出ては消え、消えては湧き出てきます。
そのように心配するパパを娘の小葉は、日常生活ではたしなめます。
着替えをさせようとすると、
「お着替え、自分でするからパパはいいの!」
靴を履かせよう、トイレを手伝おうとすると、
「ひとりでするから、いいの!」
アイス食べすぎで、お腹壊すのでは?と心配していると、翌日のトイレで、
「良いウンチが出たよ!パパ、楽しんで食べると良いウンチが出るんだよ!」
と僕の心配は一蹴され、諭されます。
子どもたちを心配することで、親である僕は何を得ようとしているのだろうといつも問いかけます。
- いつまでも子どもを非力にしておきたい
- 手のかかる子にして、親のポジションを守りたい
- 親であることで、自分の存在価値を保ちたい
- 自分がいなければ存在できない子という現実に密かに微笑む
など、いつも娘の小葉の力を奪おうとするパパなのです。
最近は、「何でもやってあげちゃうお化け」というフレーズを使って、娘と遊んでいます。
「このはちゃん、お洋服着させてあげちゃうよぉ~!ひとりで何もできない子にしちゃうよぉ~!みんながひとりで成長していく中、困らせてあげるよぉ~!」
「いやぁ~!」と娘の小葉は笑いながら、ひとりでお着替えしようとします。
もちろん、やりにくいところや困ったところはサポートしますが、「心配は相手のパワーを奪う」という認識は伝えたいと思います。
時間がかかるから、面倒なことになるから、人に迷惑がかかるから、と親がやってあげてしまいたくなることも多いです。
または、親である自分に降りかかってくるだろうと予測できる責任から免れるために子どものパワーを奪ってしまうことがあるように僕自身は思います。
それは人間関係、特に身近な人にやってしまいがちです。
それはいつまでもその人にとって自分が重要な人でありたいから…でしょうか。
誰かに必要とされるって良い気持ちですもの!
各人は自分の人生を自分で変えていきます。
そこにいつまでも関わっていたいと思うのかもしれません。
それが「心配」という形で現れることもあるでしょう。
非力な役を担って、親に氣づきを与えてくれる娘に感謝しつつ、スキーキャンプから、また、成長して帰ってくることを楽しみにしています。